密から疎のトレンドは時間でも起きる

イシューからはじめよの安宅さんのブログで、面白い記事があった。

これに付け加えると、今後のトレンドの縦軸の「密→疎」は、
空間だけじゃなくて時間にも当てはまると考えられる。

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React Nativeという生き方

4/19でとうとうエンジニア二年目が終わってしまうので、
区切りとして、今後どうやって生きていくのかを考えたのでまとめておく。

前提として、僕はプログラミングスキルを持っているし、
今後もスキルを使い伸ばし続けるにも関わらず、「エンジニアをやめた」。

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受動的な能動的現代人

また矛盾したようなタイトルになってしまった。

今日ふと思ったのだが、僕たちが日常的に何の気なしにインスタグラムやツイッターを開いてコンテンツを読んだり、広告をクリックするのは、果たして能動的なのだろうか。

一般には、テレビは受動的なメディアと言われている。それは、放映時間や視聴できるコンテンツが放映側によって強くコントロールされており、視聴者に自由がないからだ。

一方的に垂れ流すというニュアンスで、受動的ということだ。

一方、昨今はインターネットの発達で、能動的に情報を取りに行く時代だ的な話をよく聞くが、まあ、確かに検索して見つける分にはそうだろう。

しかし、インターネットの黎明期こそ、検索がメインで能動的だったのだろうが、今のスマホをいじくる現代人の有り様は全く能動的に見えない。

自分の本能や嗜好性、習慣によって自動的に運転され、自動的に流れるコンテンツを消費している様子は、どう見たって受動的だろう。

まあ、フォロワーを「選び」、コンテンツを「選んで」いるので、100パーセント受動的とは言えないかもしれないが、じゃあ、その能動性は、テレビのチャンネルを選ぶのとどれほど違うというのだろう。

現代は、過去に比べて能動的に情報や環境をコントロール出来るようになったと思われるが、実は選択肢が増えただけで、能動的か受動的かという部分は殆どの人は本質的には変わっていなくて、ただ、コンテンツを垂れ流して受動的に生きているように僕には思える。

変に能動的に、主体的に生きていると思うのは簡単だが、その実、実は悪しき習慣や自分の嗜好性に操られて時間を消費しているのが現代人の実態だとすれば、本当に自分は能動的に情報を選び、生きているのか、今一度問いかける必要があるんじゃないだろうか。

市場価値の高い人間を目指してはいけない

なぜか。

答えは簡単だ。

市場に自分を合わせにいっている時点で、他人の土俵で戦うことになるし、それは競争を意味する。

そして、競争するからには勝つ必要がある。


競争とは疲弊を生むことにほかならない。

その先に待っているのは文字通り死だ。

別に能力が高くて、しんどい競争が好きで、実際にその競争を勝ち残れる人なら何も問題はない。

だが、僕みたいな凡人はそういう戦い方をすると、すぐに負けるし、精神が持たない。

もっと楽して稼ぎたい。

じゃあ、そんな凡人はどうするべきかというと、自分で市場を作ればいい。

難しいように聞こえるが、これはスタートアップとかの話とは規模が違うから、そんなに難しくない。

最近少し流行りのモテコンサルとかはそのいい例だ。

人一人が生きていく市場なんて、そんな大きくなくていいのがミソだ。

感情的に判断することは、実は合理的かもしれない

矛盾するように聞こえるが、今日ふと気づいたことだ。

僕たちの感情は、おおよそ本能が形作られたお猿さんの時代に根ざしており、当時はこの感情が合理的だった…という話は僕は好きだが、今回はその話ではない。

現代においても合理的な場面が多々あることに気づいた。

例えば、僕は気分で働く場所を変えるが、そこに論理的な理由はない。

今日は家にいよう、今日はこっちのカフェに行こう、次はマクドナルドにしよう…

これらを直感で決めることは、意志決定に使う精神力を節約することにもなるし、合理性を思考し、比較する時間の節約にもなる。

よくよく考えてみると、隣り合わせで並んでいるカフェで、どっちで仕事をしようか、というのを完全に論理的に意志決定しようとすると、それだけでかなり疲れる。

・空いていそうか

・うるさくないか

・飲み物は美味しいか

・飲み物のコスパはいいか

・長居しやすいか

・雰囲気はいいか

・気分が乗って生産性は上がりそうか

これらを全て網羅的に考え、それぞれのインパクトの大きさを見積もり、補正係数をかけ、比較する…というのは、アカデミックの世界でこそやるけれども、日常のこんなカジュアルな意志決定で毎回するのは馬鹿げている。

感情的な意志決定は思いのほか合理的なのだ。

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そもそも、論理的思考で拾える情報空間には限界があるので、正しく評価することが出来ない可能性すらある。

だって、そこにいて地震が起きて建物が倒壊して死ぬリスクなんか、誰にも見積もれない。

通常は無視するが、無視する時点で既に完全に論理的な意志決定ではない。

あくまで近似という論法で出した答えに過ぎず、正確ではないのだ。

無視できない塵も積もれば山となり、結果を大きく左右する。

以前述べたように、意志決定の対象の大きさによって、真の意味で論理的に意志決定ができるかどうかは決まる。

カフェの例を鑑みると、案外その可能性の分岐点は、小さな意志決定なのかもしれない。

自分で全部作りたいという欲求と効率の狭間

先日、大学時代の研究室のOB会で、あるOBがプレゼンテーションでこんなことを言っていた。

「僕はこのシーンが大好きなんです。」

そう言って彼が見せたのは、映画アイアンマンの主人公が、自宅の実験室のようなところにこもって、一人で淡々とロボットを作っているところだった。

多分、一般的な感覚からすれば、ちょっとこいつ変なやつだな、って思うのかもしれない。

でも、僕は彼の言っていることが、すごく腑に落ちた。

「そうか、僕の根源的な欲求もこれだ」

と。

一人で自分の好きなものを作り上げてしまう、スーパーエンジニア。

それによって自分の求める世界を自分の周りにいとも容易に構築してしまう。

僕はこれになりたかったのだ。

僕は昔から、映画に出てくる尋常じゃなく頭のいいキャラクターに惹かれてきた。

これはきっと、彼らが大抵コンピュータを自在に操り、自分の思うがままに環境を変化させていく力を持っているからだったのだろう。

だが、これらはすべてフィクションで、現実には一人の人間が死ぬまでに得られる知識や技術、そして作れるアウトプットの数はたかがしれている。

実世界では、通常優秀なエンジニアを沢山雇い、これを実現するのだ。

だが、僕は根源的な欲求として自分の世界は自分の手で創りたいと思ってしまっている。

これをどうやって両立するのかが今後の課題みたいだ。

言語化できてスッキリした。

人々のニーズに応えることは本当に世界をよくするのか?

平たく言い換えると、売れるから売るという行為は本当にいいことか?ということだ。

ビジネスの存在意義は、世の中をより豊かにすることにある。

お金が儲かるのは、その豊かさを人々に提供する対価を受け取るからだ。
(起業家のモチベーションがお金にあるとかは全然構わないと個人的に思っている)

しばしば勘違いしがちだが、人は必ずしも本質的に豊かになることにお金を使わない。

わかりやすさのため極端な例で恐縮だが、

ギャンブルやアルコール中毒の人がお金をギャンブルやお酒に費やすのは、本当にその人を豊かにするためだろうか。

度が過ぎた肥満の人が、過度に糖質を含む食品を買うのは、本当にその人の今後の人生を豊かにするだろうか。

もう少し微妙な事例がある。

水素水というものが数年前から流行っている。最近はジムなんかでもよく置いている。

だが、健康へのプラスの影響は立証されていない(らしい)。

マイナスイオンドライヤーもそうだ。

マイナスイオンというのは、電気的に中性の原子がエネルギー的により安定するために、マイナス荷電の電子を取り込んだ状態のことだ。(中学3年生の知識なので、本来であれば義務教育を受けた全国民が教養として知っていることである)

特定の原子のことではない。

だが、どの商品を見ても、なんの原子がイオン化しているのか説明はないし、そのイオンがなぜ髪にいいのかも化学的な説明もない。

(※一応断っておくと、これらの事例が実際に正しいかどうかはここでは大した問題ではなく、重要なのはそういう事象があり得るとい
う可能性の方だ)

モノやサービスというのは、本当にそれに価値があるから売れるのではなく、

正確には人がそれに価値があると感じるから売れる。

つまり、本当は価値がないけれど人が価値があると感じてしまえばそれは売れることになる。

この現象はまるで詐欺のようだ。

ブランドのロゴのように、人が価値を感じる事自体が価値となることもある。

それは人が価値観で決める部分を豊かにしているから全然構わない。

だが、上記の例のような物理現象をはじめとする、人の価値観で効果が決まらないものに関しては大問題だ。

本当はよくなってないのに、よくなったと錯覚するために人はお金を払うのだ。

やっぱりこれは詐欺と同じだ。違うのはものやサービスを提供する側に悪意があるかどうかだけだ。

世の中への影響という意味では詐欺と何ら変わらない。

殺人をした人が意図的であろうとなかろうと、死んでしまった人とその遺族にとっては大した問題じゃないのと同じ構図だ。

見方によっては、その人が幸せと錯覚していようが、幸せを感じるならそれでいいとも言える。

僕はその価値観は否定はしない。

だが、もし本質的な解決が可能なのであれば、そして人がそれを選ぶことができるのであれば、本質的な解決を選ぶべきだと思う。

人が勝手に誤って購入してくれるから、という理由で売れてしまうものは世の中に存在してはいけない。

少なくとも、メタな視点で問題を認識している事業開発側の人間は、情報の少なさ故正しく判断ができない消費者と違い、その責務を負っているという自覚を持ってビジネスを作っていくべきなんじゃないだろうか。


誇りを持つこととプライドが高いことの違い

結論から言うと、誇りを持つというのは、何かを名誉に思うという意味だが、一方でプライドが高いというのは傲慢と同義だ。

日本語の誇りという単語は、英語でプライド(pride)と訳される。

しかし、日常的な会話において、
誇りはポジティブに使われることが多い(誇りに思う、など)のに対し、
プライドはネガティブに使われることが多い(プライドが高い)。
誇りとは、何かを名誉に思うことであり、
自分が価値のあると感じるものを信じることであり、
これ自体は本来むしろポジティブな意味だ。
だから、ネガティブな使い方は僕には違和感があって、
何が変なのか考えてみた。
プライドという言葉は、プライドが高いというフレーズで使われることが非常に多いため、
一旦プライドが高い人のペルソナをもとに、この意味を考えてみよう。
セットで使われる文脈でパッと思いつくのは以下のような感じだ。
あの人はプライドが高いから、
・失敗したら心が折れそうだな
・間違ってるところを言いにくいな
・指示を聞いてくれるか心配だな
これらに共通する人物像は、
・自分のやり方が絶対だと(心の底で)思っている
・自分は間違えないと過信している
といったところだろう。
信仰の対象が自分になっているのだ。
ちょっと難しい線引きなのだが、
これは、自分の存在を認め、受け入れるのとは違う。
人が自分に自信を持ち、健全な精神状態たり得るのは、
自分を優れた存在(=名誉のある存在)と考えるからではなく、
自分の長所短所含め、そのままで存在していいと受容してあげるからだ。
つまり、プライドが高いというのは傲慢である。
結果として、自分が絶対に正しいと思い込み、人の指摘を受け入れられず、人の意見を素直に聞く柔軟性を持たないのだ。

論理的思考の限界〜論理的思考は本当に説得以外に使い道はないのか〜

人気シリーズ「論理的思考の限界」の第四弾。

過去の関連記事はこちら
論理的思考の限界
論理的思考の限界〜意思決定を論理的に行うとハマる罠〜
論理的思考の限界〜なにかをする理由、しない理由〜


僕の中でそれなりの答えが出たので、整理しておく。

論理的思考の限界〜意思決定を論理的に行うとハマる罠〜でも説明したように、
論理的思考はその性質から、他者への説得ツールだと割り切ってもいいかもしれない、
というのがメタップス佐藤さんの論旨だった。

重箱の隅をつつくような話に聞こえるかもしれないが、
僕はこの考えに概ね賛同しているものの、違和感もあった。

例えば、今ある場所に急いで、なるべく安く行きたいとする。


そして、その行き方が2通りあるとする。

一つは、有料で1時間かかる。
もう一つは、無料で30分かかる。
料金とかかる時間以外の条件が完全に同じだとして、
どちらの道を通るべきか。

まあ、普通に考えれば後者をとる。

これは論理的に考えた結果だし、
誰にとっても最善の選択であることは疑いの余地がない。

このように、論理的に考えて正しい意思決定が出来る場面もある。

つまり、論理的思考は意思決定に使うのは危険だ、というのは前提がある。

その前提は、意思決定の対象の抽象度が高く、

人間が認識できない思考空間が存在する(=対象が大きい)ことだ。

その意味で、論理的思考は抽象度の低いものに対しては完全にワークするので意思決定に利用できるが、

抽象度の高いものに対しては意思決定に利用するべきではなく、
相手の説得など他の目的に使われるべきだということが言える。

じゃあ、僕たちは対象が大きいものに対してはどう意思決定するべきなのだろうか。

この議論に対しての答えが、パターン思考だというのが僕の考えだ。

世の中の構造はフラクタル構造であるため、
ある領域で観察された現象が他の領域でも起きる。

例えば、かつてPC市場を席巻したマッキントッシュは、
オープンソースのWindowsに取って代わられた。

これは近年モバイル市場でも同じことが起きていて、
最初にiPhoneが市場を形成するものの、
オープンソースのAndroidが市場をとった。

モバイル市場の未来予測というのは、あまりにも抽象的で、一つ一つの要因を調べて結果を導き出すのは複雑過ぎて誰にもできない。

だが、パターンとして捉えた瞬間に、その複雑性を無視して、確度の高い予測が出来る。

また、このパターンというのは、統計的なアプローチと系統は同じで、
「理由はよくわからないが、そうなるはずだ」という主張の仕方をしている。


ある意味論理的ではないが、
怪しげな結論ありきのファクト(確証バイアス)集めをするよりは、全然価値のある考え方だと思う。


皆さんにとっての論理的思考の取り扱いの一助となれば幸いだ。