「また騙された。」
僕は人生で何度も大人たちに対してそう思ってきた。
別に詐欺にあったわけじゃない。
大人たちにも騙す気があったわけでもない。
でも、その大人たちは、無意識のうちに、
僕に間違ったことを教えていた。
これを何度も繰り返した結果、
僕はやっと当たり前のことをするようになったー
—
人生で初めて強烈に「騙された」と感じたのは、
大学生のときだった。
誰に騙されたかというと、父親だ。
(以下、父親に対してなかなか辛辣な表現が続くが、
僕は今は父親は大好きだということは断っておく)
僕は幼少期から、何かと父親に怒られて育ってきた。
夏休みの工作で、初めてやる木材の加工で、
切り方をちょっと間違えたら怒られる。
初めてやるバドミントンの練習で、
言われた通りにシャトルを打てなかったら怒られる。
初めてやる蛍光灯の付け替えで、
スムーズに交換できなかったら怒られる。
こうした事例は枚挙に暇がない。
子供の僕は、怒られるのは、
悪いことをしたときにされるものだと学習していたので、
初見で何かができない、あるいは知らないということは、
悪いことをしていることだと考えるようになった。
そしていつしか、僕は大人というものは、
全てを初見で完璧にこなせなければならないし、
なんでも知っていなければならないし、
なんでもできるものだと思うようになった。
(自分で言うのもあれだが、
僕は結構素直な子供だったのだ。)
だが、ちょっと自分で考えられる人なら分かるが、
そんな「大人」は世の中にまず存在しない。
誰しもやったことのないことは、
最初からはできないし、知らないことばかりだ。
そんな当たり前のことに僕は大学生になってようやく気づいた。
僕の父親は別に、僕が悪いことをしていたから怒ったわけじゃない。
自分の思い通りにならないから、
怒りという感情を僕にぶつけていただけだった。
そして、大学の専攻で、コンピュータやテレビ、プリンターなど、
身近な家電の仕組みを物理的にちゃんと理解したとき、
父親に対して感じていた疑念は確信に変わった。
父親は僕に家電についてすら、
知って置かなければならないかのような態度をしていたが、
大学の機械工学専攻まで行かないと説明ができないようなことを、
普通の人間みんなが知っているわけがない。そう、父親自身も含めて。
ある種、父親を神かなにか完全な存在であるように思いかけていた僕は、
心底失望した。
—
教える教えられるという関係になると、
教えられる立場の人間は、往々にして、
その教える立場の人間の「権威」に目がくらむ。
つまり、盲目的に言うことを聞くようになるのだ。
教える立場の人間は自分より賢いし、経験も知識もあるから、
なんとなくその人が言うことは絶対的に正しいような気がするのだ。
ちなみにこれは、
これは、親子、師弟、教師と生徒、先輩と後輩、
上司と部下など、社会のあらゆる場面で見受けられる話だ。
だが、残念ながら、そんな都合のいい話はない。
教える人も人間で、神ではないので、
言うことが全て正しい訳がない。
僕はこの大学生での気付き以来も、
何度も教える側の「大人」たちに何度か裏切られた。
結局、僕がそこから学んだことは、
答えは自分で考えなきゃいけないということだった。
そう、大学生以降になって、時間をかけて、
ようやく僕は自分の頭で考えることができるようになったのだ。
なんともまあ恥ずかしい話だ。
間違った知識を教えられたところで、
その知識を良かれと思って教えてくれた人に、
悪意もなければ責任もない。
間違った知識を疑わず、はいそうですかと信じて受け取った、
自分に最終的には責任がある。
世界中の人を嘘つきにしてしまわないために、
自分が納得できる人生を歩むために、
自分の頭で考えることはとても重要なことなのだ。
【追記】
これに気づいてからというもの、
僕は以前にも増して、表面的な知識よりも、
その背後に存在する理論や基盤を重視するようになった。
進化生物学や脳科学、統計学はその最たるものだろう。
これらを無視した議論や知識は、
僕の中で基本的には信用ならない。
逆に、こうした大きな判断基準さえ持っていれば、
世の中の下らない膨大な情報に振り回される心配はない。
こうした前提さえ持っていれば、
あとは価値観というそれこそ答えのない世界だけが残るので話が早い。
この辺りに興味のある人は、ぜひこちらの書籍をオススメしたい。
『「読まなくてもいい本」の読書案内』橘玲