端的に言うと、doer(物事を自分で行う人。起業家、事業家、なんでもいい)は、アホなノイジーマイノリティの批判で挑戦を挫かれてしまうのを避ける方法は、実績を作るか場所を選ぶかしかないということだ。
最近、会社でルールを設けることや、あるいは国家として法律を作ることについて、少し考えたことがあった。
ルールや法律(以下、まとめて規則と呼ぼう)は、その規則を設定する単位の組織において、失敗や批判があったときに後発的に作られることが多い。
例えば、民泊なんかだと、近隣住民にとって迷惑になることが沢山報告されることで、じゃあ手を打ちましょうと、営業日数の削減や、ホテルのような受付の設営義務を課すようになった。
テレビなんかだと、子供に悪影響だと懸念されるようなコンテンツがどんどん放送規制されるようになった。
よく見る光景ではあるが、この先にどんな世界が待っているのかを考えたときに、僕はとてもつまらない世界しか想像できなかった。
組体操も棒倒しもダメ。
あれもダメ、これもダメ。
この、ダメダメづくしの施策を見ていると、一つの共通点が見えてきた。
それは、「禁止事項である」ということだ。
もともと、それらの行いは何かしらの建設的な目的のために、誰かが良かれと思って考えたことばかりだ。
当然、完璧なことなど世の中には存在しないので、失敗もあれば事故も起きるだろう。
例えば、人は歩行をするが、歩行することは転倒や交通事故のリスクを伴う。
だが、歩行の先にあるメリットを享受するため、人は、「歩かない」のではなく、「歩く量を減らす」のでもなく、「右を見て左を見てまた右を見る」などの工夫によってそれらのリスクを減らして生きている。
転倒や交通事故が危ないので、死ぬまで歩くのを止めました、という人を聞いたことがない。
だが、近年のダメダメ施策はどうか。
まるで、そうして歩くのを止めた人に僕は見える。
施策の何がいけないかというと、代案を出していないこととも言える。
「〜という失敗を回避するため、〜する」という行動ベースの施策になっていない。
ある意味、失敗を避けるために、やらないという選択は誰にでも出来る安直な考えだ。
難しいけれども、人が考えるべきは、
「どうやったら失敗を避けつつできるか」
だ。
避けるべきは、
「不要なリスク」
であって、
「リターンの享受のために必要なリスク」
ではない。
だが、リスクと危険を区別できない人たちは、感情論でリスクのロングテールばかり指摘する。
そして、もっと厄介なことに、そういう人たちはリターンが認識できないので、指摘だけして同じリターンを得るための代替案を考えない。
肝心の次の一手もまた、人任せなのだ。
そして、残念ながらこういう反応をするノイジーマイノリティの意見が世論として取り沙汰されやすい(安直にニュースのネタにされやすい)ので、あたかもそういう意見が世論であるかのように思われる。
すると、どうなるかと言うと、何も手を打たないと、環境が納得しないかのようの状況が続くのだ。
こんな事故を起こしておいて、何もしていない、と。
本当は想定のリスクの範囲内であるにもかかわらず、
必要以上にリスクを減らすことを要求される。
結果として、doerたちは、頭では全く建設的じゃないことを分かっていながらも、とりあえず「禁止」することを余儀なくされる。
僕はこういう現象を目の当たりにするたび、
そんなアホな一部の人のために、
その他の人たちがリターンを享受出来なくなることは、
あってはならないと思う。
じゃあ、僕たちdoerはどうしたらいいのか?
スタートアップや個人で新しい取り組みを成功させている事例を見ていると、
大きく以下の2通りがありそうだ。
1. 実績を出す
一番分かりやすい価値の証明方法だ。
それがリスクのあるものでありつつも、
ちゃんと人や世の中に必要とされていることが分かれば、
ノイジーマイノリティは黙るしかない。
論破出来ないので、むしろ非論理的なことを言うと惨めだからだ。
2. 場所を選ぶ
自由度の高い現代だからこその選択肢だ。
理解の得られる場所を選んで閉じてしまえばいい。
例えば、有料コミュニティとかは最たるものだ。
共感出来る人しかいないので、建設的な反対意見しかない。
doerは僕の中で一番価値が高い人種だ。
自分も来るべきときには、
コミュニティを閉鎖したりして、挑戦をしつつづけたい。