矛盾するように聞こえるが、今日ふと気づいたことだ。
僕たちの感情は、おおよそ本能が形作られたお猿さんの時代に根ざしており、当時はこの感情が合理的だった…という話は僕は好きだが、今回はその話ではない。
現代においても合理的な場面が多々あることに気づいた。
例えば、僕は気分で働く場所を変えるが、そこに論理的な理由はない。
今日は家にいよう、今日はこっちのカフェに行こう、次はマクドナルドにしよう…
これらを直感で決めることは、意志決定に使う精神力を節約することにもなるし、合理性を思考し、比較する時間の節約にもなる。
よくよく考えてみると、隣り合わせで並んでいるカフェで、どっちで仕事をしようか、というのを完全に論理的に意志決定しようとすると、それだけでかなり疲れる。
・空いていそうか
・うるさくないか
・飲み物は美味しいか
・飲み物のコスパはいいか
・長居しやすいか
・雰囲気はいいか
・気分が乗って生産性は上がりそうか
…
これらを全て網羅的に考え、それぞれのインパクトの大きさを見積もり、補正係数をかけ、比較する…というのは、アカデミックの世界でこそやるけれども、日常のこんなカジュアルな意志決定で毎回するのは馬鹿げている。
感情的な意志決定は思いのほか合理的なのだ。
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そもそも、論理的思考で拾える情報空間には限界があるので、正しく評価することが出来ない可能性すらある。
だって、そこにいて地震が起きて建物が倒壊して死ぬリスクなんか、誰にも見積もれない。
通常は無視するが、無視する時点で既に完全に論理的な意志決定ではない。
あくまで近似という論法で出した答えに過ぎず、正確ではないのだ。
無視できない塵も積もれば山となり、結果を大きく左右する。
以前述べたように、意志決定の対象の大きさによって、真の意味で論理的に意志決定ができるかどうかは決まる。
カフェの例を鑑みると、案外その可能性の分岐点は、小さな意志決定なのかもしれない。