前回の
「サラリーマンを辞めて気づいたこと」
の兄弟記事になる。
僕は二社目を退職して起業することを決断した。
僕はサラリーマンという生き方が全く合わなかったことを悟ったからだ。
だが、そんな僕にとってサラリーマン生活は全部無駄だったのかというと、
そんなことは全くなかった。
むしろ、僕という人間にとっては、
不可欠なプロセスであったようにすら思う。
僕という社会不適合者が、サラリーマンをやって、
気づいたことや理解したことを以下に述べる。
新規事業じゃないとダメだと気づいた
学生時代、漠然と起業することに憧れて、
ビジネスコンテストに出てみたり、
自分でiPhoneアプリを作ってみたり、
企業と新規事業プロジェクトをやってみたり、
色々と手を出してみた。
全部うまく行かなかった。
だが、一つ分かったことがあった。
僕はまだ世の中にない新しい価値を生み出そうとする行為そのものに、
この上ない興奮を覚えるということだった。
そして、その価値のためなら、プライドを捨てて馬鹿になれた。
人の目を気にする僕が、
全く知らない人たちのグループに求人の宣伝を必死にしたり、
自分で動くのをめんどくさがる僕が、
丸2日間も現場に密着取材したり。
営業なんて考えただけでもゾッとする行為なのに、
実現こそしなかったが、iPhoneアプリに関しては、
完成間際にはLINE社に自分で売り込みに行く計画まで立てていた。
僕はとにかく動いていた。
そして学んだ。
自分で言うのもなんだが、
当時の僕は起業家のスタンスとしては、
いい線行っていたと思う。
計画なんかハチャメチャだったし、納期は守れないし、
人の巻き込み方もメチャクチャだ。
だけど、
とりあえずやってみること、
自分が先頭を切ってやること、
全部最後まで諦めずにやりきろうとすること、
やりたいことが目の前にあるのに、スキル不足でできないことが悔しくて一生懸命学ぼうとしたこと、
そして熱中して一日中そのことしか考えられなかったこと。
ここだけは今振り返っても、悪くはなかった。
そしてそんな学生時代を経験していながら、
僕は、サラリーマンになった。
今の僕ならそのまま起業しただろうが、
当時の僕には勇気が足りなかった。
今までみたいに肩書が欲しかった。
優秀な人が就職する会社に所属していた、
という社会人の保証書が欲しかった。
起業は「いつか」すればいいと思っていた。
そして、既存事業に関する仕事をするということがどういうことか、
全く分かっていなかった。
毎日、世の中にない新しい価値を実現しようと、
高校生の時の文化祭の前日みたいな気持ちで、
最高にエキサイティングな毎日を送るものだと思っていた。
だが、現実はそんなものじゃなかった。
僕は、自分の欲求とは全く整合性のとれない仕事をする中で、
どんどん鋭気を失っていった。
そして、精神的にギリギリまで追い詰められて、
僕は自分の根源的な欲求を受け入れられるようになった。
僕は自分で新規事業を創らないと、つまらなくて死んでしまう。
僕はこのとき、自分にとって大切な「新しさ」の定義をした。
参考:
「ものづくりには三種類ある」
そして、常に自分がまだ見ぬ、
「新しい」ものを生み出して生きて行こうと決意した。
これは、自分でプロダクトを生み出す人間になると決めた瞬間だった。
大企業の中で新規事業をやるのは自分に向かないと気づいた
僕は一社目を辞めた後、アメリカにある、
某エンジニアブートキャンプに参加しようと思っていた。
そこ入るには選抜試験をパスしないといけなくて、
そのために、日々黙々と勉強をしていたのだが、
ある日スタッフの一人に声をかけてもらった。
一緒に事業をやらないかと。
これが、二社目の入社に繋がった。
新しいものを追い求めて活動することを久しく忘れていた僕は、
動けば何かが起きる、ということを久しぶりに思い出した。
だが、しばらく勤める中で、
大企業で新規事業を作るのは、
僕の求める姿じゃないと気づいた。
大企業での新規事業というのは、
そもそも、「世の中にない」という意味での新規ではなく、
「社内にまだない」という意味の新規であることが多い。
参考:
「新規事業の「新規」という言葉はどこで新規なのか?」
上述の通り、僕の求める「新しさ」とは、
世の中に既にひとつでも存在していたらもう価値がない。
文字通りZero to Oneじゃないと嫌なのだ。
そして、もう一つ。
自分に裁量がないと楽しくない。
最終的な意思決定を自分で行っている、
という自己効力感が僕には不可欠だった。
自分が事業の方向性を完全に責任を持って決めている、
という状態が必要だった。
そう、一人のメンバーとして意見を出して、
結果的にその意見が通ろうが、
自分が意思決定していない限り、僕は充足感を得られない。
メンバーである以上、自由と責任は小さい。
僕が自分でそのプロダクトを作ったと思えるためには、
完全な自由と責任を負う必要があるのだ。
その意味で、僕は自分よりも上の立場の人間が一人でも存在する状態は望ましくない。
こうしたことを理解して、僕は確信を持って、
僕には起業するという選択肢しかないと思えるようになった。
三年半もかかって、遠回りしてしまったが、
一通り経験したことでやっと、僕は自分の生き方に確信が持てた。
きっと、いきなり起業して失敗していたら、
「やっぱ大企業に行って、安定的な給与を貰っていたほうが良かったのかな」
などという言い訳を沢山してしまっていただろう。
世の中の多くの人がどういう働き方をしているのかを知れた
人々にとって価値のあるプロダクトを作るには、
その人達が現実にどういった価値観を持って、
どういうふうに生きているのかを知る必要がある。
僕は、サラリーマン生活を通して、
大多数の人が経験する生活を知ることが出来た。
これは、過剰な労働時間や、組織における退職の要因、
日本特有の新卒採用という仕組みの功罪など、
世の中の構造的な問題を、深く理解することに繋がった。
結果的に、ライフスタイルの海外との比較も、
より実感を持って語れるようになった。
これは、いきなり起業して小さな組織から始めていたら、
知ることはなかったことだ。
会社の仕組みが分かった
どんな部署や役職があって、それはどういう必要性から生まれるものなのか、
ということが一通り分かった。
主に大きな組織を見てきたが、
結果として僕は小さな組織のメリットがよく分かるようになった。
だからこそ、自分で起業するときには、
何が大切なのかがよく分かる。
自分の強み弱みが分かった
まさか、自分が電話をしながらメモを取ることが出来ないとは思いもしなかった。
人の気持ちを汲み取ることが出来ないとは思いもしなかった。
僕は、自分が典型的なADHDであるということに、
そうじゃない人(大企業で上手く立ち回れる人)に囲まれて生きる中で、
知ることができた。
参考:
「人の気持ちを考えるということが生まれて約30年間分かっていなかった話」
「ADHDはなぜ注意の向いた先のことから手掛けてしまうのか」
いきなり起業していたら、僕は自分のそうした負の側面を、
自覚することはしばらくなかっただろう。
逆に、自分の優れている部分にも気づくことが出来た。
新しいビジネスなんて、
ビジネスパーソンなら皆が毎日考えているものだと思っていたが、
必ずしもそうでもなかった。
統計やAI、プログラミング、歴史、進化生物学、
こうした理系文系問わずに必要な知識について、
皆がある程度精通していると思っていたが、
案外そうでもなかった。
そして、それらを体系化して日常生活と紐付けて、
世の中の構造を紐解くことも皆がやっているわけではなかった。
自分が当たり前だと思っていたことの多くは、
全然当たり前じゃなかった。
そしてやっと、僕のやりたいことは僕にしかできないと確信が持てた。
こうした紆余曲折があって、僕は、
“connecting the dots”
というのは、こういうことなのかと、ほんの少しだけ感じることが出来た。