心理学

僕が思考する術を完全に失った話

僕は世の中のことは、

基本的に物理現象として科学的な説明がつくと思っていた。
だが、それが僕の傲慢だということを思い知らされるすごい出来事があった。
僕を謙虚にさせてくれたのは、
意外にも「手品」だった。
僕に仕事をくれている知人に、
とあるプロのマジシャンの経営するバーに連れて行ってもらった。
僕はそこで文字通り「魔法」のような現象を目の当たりにした。
もちろん凄いし楽しいのだが、
一番の感想は、
「打ちのめされた」だった。
目の前で起きる現象が、
何一つ全く説明出来ないのだ。
僕は物理に関して専門家ではないけれど、
機械工学の修士課程を修了するぐらいは物理は分かっている。
それですら、
「どうやっているか分からないけど、
多分これをこうしているのだろう」、
という見当すらつかない。
僕が一番あり得ないと思った手品が、
僕が好きな食べ物、あるいは商品名を頭の中で思い浮かべて、
その名前を文字通り当てるというマジックだった。
僕が思い浮かべたのは、
「辛」というカップラーメンだった。
僕が指示をされたのは、
・その食べ物を食べているときの顔をすること
・その食べ物の文字を思い浮かべること
のたった二つだ。
彼はそれだけで、「辛」を当てた。
もはや、僕の想像を絶するレベルだった。
物理的な現象なら、
まだ高等なテクニックでありえるかもしれない。
だが、複雑な人間の心の中の映像を読み取るなんて、
僕の常識ではあり得ないことだった。
しかも、彼の一番凄いのは、
自分の認識していないものを当てられることだ。
今回の「辛」という漢字は日本人なら知っているものだ。
だが、彼は韓国語が分からないにも関わらず、
韓国人のお客さんの想像したハングルの文字列を当てたのだそうだ。
絶対にあり得ないと信じていたことが、
自分の目の前で起きていた。
今まで僕が説明できると思っていた現象は、
全部僕の思い込みだったんじゃないか。
そう思うと、目の前で起きている現象は、
全て自分の思い込みでしかなく、
本当は全く異なることが真実として隠れているんじゃないかと思えてくる。
自分が今目の前で握っている、
スマホの感触すら幻想かもしれない。
一体、これから何を手掛かりに思考すればいいのだろうか。
自分の認識は全て不確かなものだとすれば、
何を信じればいいのだろうか。
世の中の説明なんて簡単だと思い込んでいた僕は、
見事に自分の傲慢さを思い知らされたのだった。

新しい道具は結局全て慣れだと気づいた話

今僕はプログラミングスクールに通っているが、

通学(という言葉は好きじゃないが)途中に気づいたことだ。
同じルートを頻繁に使うため、
回数券(切符と同じ形)というものすごく古典的なツールを使っているが、
改札を通るときにちゃんと通るのか、
ものすごく不安になるのだ。
無論、磁気というテクノロジー的な不安もあるが、
それ以上に僕の慣れの方が大きいと感じた。
なぜなら、僕はICの交通パスの細かな仕組みを知らないから、
比較をしようがないのだ。
僕の感じる不安は極めて感情的で、
慣れという主観で決まっているようだ。
ところで、テクノロジーによる自動化が起きるときには、
こうした感情的な不安をそのまま行動に起こして反対する人がいる。
サルとしてはその反応はまあ仕方がないと思うのだが、
人間なのだからもう少し考えようよ、
といつも思う。
僕がいつも例に挙げるのは、
布おむつVS紙おむつの話だ。
大昔、紙おむつが輸入されて普及する頃、
大勢の人が反対した。
再利用と使い捨ての典型例だが、
彼ら(彼女ら)の反対理由は、
環境負荷などではなく、
「大変なことでも苦労してやるから、
赤ちゃんに対して愛情が深まるものだ。
それを効率よくしてやらないのは、愛情の欠如だ」
というものだ。
現代からすれば、この主張が誤りであったことは自明だが、
当時はそうではなかった。
効率よくした分、
赤ちゃんとのコミュニケーションという、
もっと愛情を深めるための時間が増えることが分からなかったのだ。
これは現代でも起きている。
自動改札機の導入時は、
おそらく駅員さんとのコミュニケーションが減るというよく分からない理由で反対があったであろうことは想像に難くない。
だが、実際は駅員さんは、
切符を切る時間がなくなった分、
駅で道に困っている人なんかを助けるという、
もっと満足度を高められる仕事をする時間が増えたのだ。
最近で言うと、AIもそうなるだろう。
第二次産業革命のとき、ラッダイト運動が起きたが、
現代はみんなが機械を受け入れている。
テクノロジーに反対する人は、
往往にして見方が一面的なのだ。
導入の結果、何が起きるのか、
ちゃんと正と負の両方の側面から評価するように気をつけたいところだ。

一人称の違いで自分の人格が変わることについて〜人格に影響を受けるパフォーマンス〜

友人がFacebook面白いことを書いていて、

改めてそうだなと思ったことだ。

彼は、一人称が変わることで、
人格が微妙に変わるそうだ。

複数の言語を操る人は、
複数の魂を持っているということもあることから、
かなり妥当な話だろう。

あまり普段意識はしていなかったが、
彼に限らず、僕も含め、多くの人はそうなんじゃないだろうか。

ある人は無意識のうちに、ある人は場面の影響で、
一人称が変わる条件は色々あるだろうが、
まあ、とにかく人格は紐付いて変わる。

過去にもよく書いているように、
思考と言語に密接な関係があるのがその一つの理由だ。

僕は、日常生活では一人称は「俺」だ。
丁寧語(僕)とタメ口(俺)、関西弁と標準語でマトリクスに整理すると、
自己認識ではこんな感じだ。
(他の人からは違って見えるかもしれない)

丁寧語×関西弁:挑戦的で生意気
丁寧語×標準語:弱気で意志薄弱な下僕
タメ口×関西弁:強気で意志強固なリーダー
タメ口×標準語:気取り屋

ちなみに英語で話すときの僕の人格は、タメ口×関西弁に該当する。
相手が教授だろうが社長だろうが、話し方は変わらない。
英語だとかなり強気で自分の思っていることを言えるようになる。

そして、重要なのはここからで、
この人格がその人のパフォーマンスに多大な影響を与えている
というのが僕の仮説だ。

他の人がどうかわからないから、
とりあえず自分を例に解説しよう。

僕は昔からよくリーダー役を買って出ることが多かったし、
周りからもそう見られることが多かった。

僕の性格はビジョナリーで、未来を語ったり、
その人の強みを見出して褒めたり活用することが得意だ。

しかし、この性格や得意技は、
最低でも対話相手との相対的位置関係が同等でなければ、
発揮することが困難だ。

例えば、多くの日本人は、ですます口調の自分よりも能力が劣ると思っている後輩から、
「先輩のここは強みですね」という意見はもらいたくないだろう。
褒められるなんてもってのほかだ。

これは、評価や褒めるという行為が、
基本的には上から下か、横のベクトルのものだからだ。

未来を描くにしても、企業組織はおおよそ上からビジョンが降りてくる。
下層の下々の民が描く未来なんぞ、興味がない。

つまり、僕の強みはポジション的にフラット以上な関係を築けないと、
発揮することが困難だということになる。

これは僕の過去の経験からも、
ぴったり感覚として当てはまっている。

外国人と話すときのほうが、
かなり自分の素が出せて楽なのも、
気のせいではないだろう。

これはあくまでも僕の一例に過ぎないが、
ある人は誰かについていく(丁寧語)ときの方が能力が発揮される場合もあるだろう。

これは言い換えれば、
一部ポジションが変われば人が変わるということでもある。

自分がどの人格のときが一番ラクに、
そして高いパフォーマンスを発揮できるのか、
一度考えてみてはいかがだろうか。

【追記】
なお、僕は関西出身のため、
関西弁と標準語でマトリクスを切ることができた。

そもそも標準語を話す人は、
人格数が方言を持つ人よりも少ないということは、
十分に考えられる。

なぜ、目標は人に宣言しない方がいいのか?

これは少し前のTEDの話だが、なかなか衝撃的な話だった。


要約すると、目標を宣言して人に認められると、
脳が目標が実現したと勘違いするらしいのだ。

そして、脳の中では実現しているので、
やる気が起きないという構図だ。

まあ、人間の脳は画面の中の人間と実物の人間を
区別できないぐらいお粗末なので、
それも有り得そうな範疇だ。

もちろん、
目標を人に宣言することで自分にプレッシャーが掛かる、
という場合もあるので一概には言えない。

だが、「相手に認められる」というのが、
確かにキーにはなりそうだ。

僕の話で言うと、
このブログを続けるに際して、
基本的にはやること自体は度々人に宣言してきたが、
少なくとも続ける、という目標とかについて、
人には何も認められていない。

認められていないというのは、
誰にも肯定的なコメントを(もちろんネガティブなコメントも両方)もらっていない、という意味だ。

確かに、もう十分続けたよ、とか、
素晴らしいブログだよ、
と言われた瞬間に、
なんだか半分叶ったような気分にはなりそうだ。

そういう宣言した目標がある一方で、
人には言っていない壮大な目標が、
僕にもいくつかあるが、
確かにそれは言っていないのに、
自分の中で行動はちゃんと進んでいる。

人に言わない、という選択肢は、
確かに人に肯定的なコメントをもらいがちな環境においては、
全然あってもいい気がする。

特に会社組織では有言実行がよしとされることが多いが、
必ずしもそうでなくてもいいのでは、
という選択肢を与えてくれる、非常に意義深い発見だ。

ダブルバインドに気をつけよう

心理学を少しかじったことのある人にはおなじみだが、

ダブルバインドという話法がある。

書籍のタイトルなんかで最近は非常によく見かけるが、
知らない人はそのまま引っかかる可能性があるので、
世の中に一度忠告しようと思う。

僕のブログのタイトルにもよく使うが、最近では
なぜ仕事は30分刻みで休むのがいいのか」なんかがそうだ。

TVCMではもはや濫用の域だが、
「このビールが美味しいのは、コクのせいか、それとも喉越しか…」
的なやつがそうだ。

ダブルバインドとは、
「どっちに答えても相手にとって都合のいいように、
予め答えが縛られる話法」だ。

ビールの話で言うと、
聞き手がコクのせいだと思おうが、喉越しだと思おうが、
どっちでも少なくともビールが美味しいことは変わらず、
広告側としては狙い通り、消費者にそういう先入観をもたせることができる。

言い換えれば、この話法は相手に伝えたいことを
無意識レベルで伝達するのに優れている。

直接的に、
「このビールは美味しいですよ!」
と言っても、大抵は
「え、本当かな?」
と意識に抵抗されてしまう。

しかし、ダブルバインドを使うときは、
それが主張として表出しないため、
前提として刷り込まれてしまいやすい。

ここまでの話を、「本当?」と思っている方は鋭くて、
ダブルバインドの使用には、前提として相手がその人の話を聞こうとする姿勢、
いわばラポール(信頼関係)が醸成されていることが必要だ。

だから、営業トークなんかでは中盤から終盤にかけて使うのがいいのだろうが、
書籍なんかでは、多くの人は著者の肩書や出版社でたいてい先入観を持つので、
それがそのラポールにすでになっていることがある。

こういう場合は、その主張に騙されやすいので、注意しなければならない。

これを知識として知っていれば、
書籍やCMなんかではもう死ぬほど使われていることがわかるので、
騙されることはあまりないが、
知っていない人は、一生広告に踊らされる。

まあ、ある種マニアックな僕のブログに興味を持つ人は、

知る限りはたいてい僕なんかより頭がいい人なので、
忠告に及ばないかもしれないが…

最後に、僕がこの辺を昔勉強していたときに読んだ、
おすすめの書籍を少し紹介しよう。


読んでから
もう6年ぐらい経つので、
どんな内容だったか細部までは覚えていないが、
非常にわかりやすく、
アスペの僕でもコミュニケーションですぐに役立った、
ノウハウが沢山載っている。

NLPなんかに興味がある人は、
このあたりの入門書がいいのではないだろうか。


【追記】
ちなみに、ダブルバインドは、別名を前提話法と言う。

ビールの話では、
「ビールが美味しい」ということが前提というわけだ。

僕がこっちの呼び名の方が本質的だと思うのは、
使うときも何かを前提にして話す、
ということを意識しさえすれば、
いちいち何がどうバインドされているか、
なんてことを考えずにすむからだ。

あなたの部下が何も主張をしなくなるたった一つの理由

自分の部下が本当は思っていることがたくさんありそうなのに、言ってくれない。
思ったことがあれば言うように伝えているし、発信する姿勢が大事だとも指導している。
それなのに、言ってくれないようなことはないだろうか。

あるいは、あなたが逆の立場で部下の場合、
上司からは上記のような指導をされているのに、
言う気になれないなんてことはないだろうか。

僕は大ありだ。

前職でこんな経験をしたことがある。

頭では自分の考えていることを主張した方がいいことはわかっているし、
それが組織としても建設的なのは理解している。

なのに、主張する気になれない。

言っても仕方がないと思ってしまうのだ。

なぜ、こんなことが起きてしまうのか。

僕はこの性質を知ることで、
大いに納得した。 

それは、学習性無力感と呼ばれるものだ。

何かと言うと、
人は特定の対象に抵抗しても成果が何も出ない状況に連続的にさらされたとき、
抵抗することをやめてしまう現象だ。

(進化生物学的な考察は今回は整理できていないので、
またの機会にする)

しかも、非常に現象として面白いことに、
この現象は人に伝染する。

僕の場合は、
自分のやりたいことなどの意志を見せても、
やるべきことの方が大事だということで、
それを否定するようなことしか言われない環境だった。

するともう、
何を言っても通じない、
聞き入れられない、
言うだけ無駄だ、
と無意識レベルで認識するようになる。

そうすると、思ったことがあっても何も言わなくなる。

だから、組織において、
メンバーが自分の思っていることを言わなくなったとしたら、
すでにその組織では、言ってもどうせ受け入れられない既決感が蔓延していながら、
上はメンバーが自発的に発信するべきだ、
しない方が悪い、などと立場の弱いメンバー側のせいにして、
思考停止している可能性が高い。

自分がもし、そういう状況に遭遇したら、
積極的にその無効力感のない状態を作るように心がけたい。

人が真ん中を選ぶ心理の本質

これは、現職の先輩に教えてもらったことだ。
その人は、僕とかなり近い志向性を持っていて、
人がしょうもないことに悩んで時間を使っていることは無駄だ、

そんなものは無くすべきだと、
問題意識を持っている。
そして、その解決策のひとつとして、
究極的なリコメンド機能を考えていた。
つまり、アマゾンとかで提案を受けて、
どれを買おうか悩むのは提案が悪いのであって、
究極に優れたリコメンド機能なら、
ピンポイントの提案ができるので、
悩む余地をなくせるのではないかと。
この世界観は最高にクールなものだと思ったが、
彼には1つの懸念点があった。
それは、人は選択をしたい生き物なんじゃないかという話だ。

選択したいがゆえに、

ピンポイントの提案は受け入れられないのではないか、と。

じゃあ選択をしたいとはどういうことか。
これは、実は納得するかどうかという話とイコールだ。
人は、いきなりこれがあなたにとってぴったりですよ、
と提案されても一発で、「はいそうですね」
とはならない。

他にもっといい選択肢があるんじゃないかと、疑うためだ。

だが、物件選びでもそうだが、

だいたい相場がわかってくると、

最初の薦められたものがよかった、

なんてことが結局起きたりする。

これは何が起きたかというと、

全体を網羅的に把握する(した気になる)ことで、

自分の選択肢が正しいということに、

納得感を得られたのだ。

なるほど、

この話はすべての選択行動において言えそうだ。

飲食店でよくある話で、 

コース料理が三つあったら大体みんな真ん中を選びがちだが、

実はそれが一番コストパフォーマンスが悪い、

というのもそうだ。

なぜ真ん中を選ぶかという理由には見栄など諸説あるが、

今回の話を踏まえると、

一つの大きな理由として考えられるのは、

 全体の相場を理解した気になった上で、

 一番納得度の高いものを選択しているというわけだ。

どう考えたってその費用対効果はわかるはずがないのだが、

安いものと高いものを見せられると、

安いものは悪いんじゃないか、

高いものは良すぎるんじゃないか、

という相場を勝手に自分で作り出し、

じゃあ、そこそこのパフォーマンスを出しそうな真ん中に落ち着く。

「あなたにはこれが合うよ」と言われても、

それが本当に正しくても選べない理由。

それは、納得度の問題なのだ。 

モチベーションよりプロ意識が大切というのは本当か

この記事を見てどう思うか。

主張はこうだ。
自分をプロだと認識するようになれば、
その仕事がたとえイヤなもの
(モチベーションを下げるもの)であったとしても、
プロとしての誇りが適当にやることを許さず、
高いクオリティでアウトプットする、
という話だ。
このことを、
「仕事するの嫌やわー」と言っている、
しかし保険代理店で高い顧客満足度を誇る、
おばちゃんたちを例にとって説明している。
最初はなるほどと思ったが、
次第に疑問が湧いてきた。
結局このおばちゃんたちは、
モチベーションが高いのだ。
モチベーションという、
ふわふわした言葉の定義にもよるが、
結局、自分のありたい姿に近づこうとして
プロフェッショナルを発揮しているのであって、
自発的にやっている。
だって、本当に嫌ならサボればいいのだから、
ある意味やりたくてやっているわけだ。 
というわけで、僕にとってはやはり、
プロ意識をも含む、モチベーションが重要である
という結論で締めくくろう。
あ、ところで例のモチベーションの公式だが、
また1つ修正が必要なポイントを見つけてしまった。
追ってまた投稿する。

好きであることは得意であることの必要条件だ

IQの差が20開くと会話が成り立たないという説があるらしいが、
この言葉だけ聞くと、そんなことあるのかと思ってしまう。

でも実はこれと同じ話で、僕達が普段何気なく言っている、
細かいことが私はできるとか、僕は苦手だとかって、

よくよく考えてみると、
本当にそんなことってあるのか、
と思わないだろうか。

でも実際、僕達の経験から言って、
そんなことは大ありだ。

じゃあ、このできないとか苦手って、
実際どういうことなんだろう。

この一見当たり前の現象を今日は紐解いてみることにしよう。

結論から言うと、僕は根本的にはやる気の問題だと思っている。 

冒頭のIQの差が20開くと会話が成り立たないというのは、
物理的に本来はありえない。

だって、お互いに同じ言語を話しているのだから、
頑張って歩み寄れば少なくとも会話し続けることができるはずだ。

だが、現実には、
会話するもの同士がお互いに見えているものが違いすぎて、
会話が噛み合わないことがストレスとなり、
成立させる意欲が失われ、ついには会話しなくなることがある。

これと同様に、
細かいことが苦手だというのは、
物理的に本来ありえない。
 
だって、経費精算の項目を埋めるのにしろ、書類を整理するのにしろ、
別にフェルマーの最終定理を証明させられているわけではないので、
一つ一つ丹念にやれば、小学生でもできるはずだ。

だが、現実には、
こういう細かい作業をしていると、
あまりの進まなさや、どうでもいい感がストレスとなり、
続ける意欲が失われ、ついには進められなくなる人がいる。
(僕がそうだ)

だから、こうした
できるできない、向いている向いていない、得意不得意という話は、
実は掘り下げてみると、
その人がその事象に対して向き合い続けられる適性であることがわかる。

また、適性であるからこそ、やる気の問題でありながらも、
やる気を出せばいい、という根性論ではないことも分かる。

そして、逆にこの自分に適性のあること、
つまり自分がやっていて苦痛でない、あるいは楽しいことというのは、
人よりも続けることができる。 

だから、得意になる。

え?下手の横好き?

言いたいことはわかるが、僕の中では、
「好きこそものの上手なれ」と
「下手の横好き」は矛盾しない。

これはまた別の機会で話そう。

一度死ぬ目に遭ったことのある人のモチベーションコントロール術

僕がフォローしているホリエモンなんかはよく言っているのだが、

死ぬことに比べればすべてのことはどうでもいい。

これが僕にとって勇気の源なのだが、
したがって、この死ぬことをリアルに想像できる人は、
現代において最強だ。

別に心理学とか啓発本とかにあるような、
難しいことは一切考えず、
ひるみそうになったらとにかく、
あの時死にそうになった場面を思い出す。

全てが1000倍以上はマシに思えてくる。 
 

僕自身は死にかけた(というか死ぬと思った)経験が二回ある。
一度は高校生のとき、
帰宅途中に頭が割れるかと思うぐらい頭痛がした。
本当に倒れるかと思ったのだ。

文章で読むと本当に笑い話だが、

僕はそのときここで死ぬと思った。
これが終わりってやつか…!
と。

後から思えばくも膜下出血とかだったんじゃないかと思うのだが、
幸い今の今まで何もなかったから大丈夫なんだろう。 
もう一度は、これも高校生のとき、
慢性的に異常なぐらい胃が痛くなり、
なんの妄想か、胃がんなんじゃないか、
がんだったらもう死期が近いんじゃないか、
と思ったのを今でも鮮明に覚えている。
自分が死ぬ目に遭う以外では、
あとは、自分の身近な人を亡くすのも同等だ。
偉人とかが、人生の転機として、
両親を亡くしたことを話すことは多い気もするが、
これは非常に納得のいく話だ。
僕は幸い両親は亡くしていないが、
僕は高校時代に仲よくしてもらっていた友人がいて、
大学も同じだったのだが、ある日突然亡くなった。
彼は頭も非常によく、才能もある人だったのだが、
当事はかなりショックだった。

彼の将来が今この時点でないということを、
自分に当てはめると相当ぞっとする。

僕は死ぬまでにまだまだやりたいことがあるからだ。 

ということで、
死を身近に感じた人は、何かに挑戦するとき、
自己暗示のように「死ぬよりマシだ」と思うようにすれば、
万事うまくいくだろう。