僕は世の中のことは、
心理学
新しい道具は結局全て慣れだと気づいた話
今僕はプログラミングスクールに通っているが、
一人称の違いで自分の人格が変わることについて〜人格に影響を受けるパフォーマンス〜
友人がFacebook面白いことを書いていて、
彼は、一人称が変わることで、
人格が微妙に変わるそうだ。
複数の言語を操る人は、
複数の魂を持っているということもあることから、
かなり妥当な話だろう。
あまり普段意識はしていなかったが、
彼に限らず、僕も含め、多くの人はそうなんじゃないだろうか。
ある人は無意識のうちに、ある人は場面の影響で、
一人称が変わる条件は色々あるだろうが、
まあ、とにかく人格は紐付いて変わる。
過去にもよく書いているように、
思考と言語に密接な関係があるのがその一つの理由だ。
自己認識ではこんな感じだ。
(他の人からは違って見えるかもしれない)
丁寧語×関西弁:挑戦的で生意気
丁寧語×標準語:弱気で意志薄弱な下僕
タメ口×関西弁:強気で意志強固なリーダー
タメ口×標準語:気取り屋
相手が教授だろうが社長だろうが、話し方は変わらない。
英語だとかなり強気で自分の思っていることを言えるようになる。
そして、重要なのはここからで、
この人格がその人のパフォーマンスに多大な影響を与えている
というのが僕の仮説だ。
他の人がどうかわからないから、
とりあえず自分を例に解説しよう。
僕は昔からよくリーダー役を買って出ることが多かったし、
周りからもそう見られることが多かった。
僕の性格はビジョナリーで、未来を語ったり、
その人の強みを見出して褒めたり活用することが得意だ。
しかし、この性格や得意技は、
最低でも対話相手との相対的位置関係が同等でなければ、
発揮することが困難だ。
例えば、多くの日本人は、ですます口調の自分よりも能力が劣ると思っている後輩から、
「先輩のここは強みですね」という意見はもらいたくないだろう。
褒められるなんてもってのほかだ。
これは、評価や褒めるという行為が、
基本的には上から下か、横のベクトルのものだからだ。
未来を描くにしても、企業組織はおおよそ上からビジョンが降りてくる。
下層の下々の民が描く未来なんぞ、興味がない。
つまり、僕の強みはポジション的にフラット以上な関係を築けないと、
発揮することが困難だということになる。
これは僕の過去の経験からも、
ぴったり感覚として当てはまっている。
外国人と話すときのほうが、
かなり自分の素が出せて楽なのも、
気のせいではないだろう。
これはあくまでも僕の一例に過ぎないが、
ある人は誰かについていく(丁寧語)ときの方が能力が発揮される場合もあるだろう。
これは言い換えれば、
一部ポジションが変われば人が変わるということでもある。
自分がどの人格のときが一番ラクに、
そして高いパフォーマンスを発揮できるのか、
一度考えてみてはいかがだろうか。
【追記】
なお、僕は関西出身のため、
関西弁と標準語でマトリクスを切ることができた。
そもそも標準語を話す人は、
人格数が方言を持つ人よりも少ないということは、
十分に考えられる。
なぜ、目標は人に宣言しない方がいいのか?
これは少し前のTEDの話だが、なかなか衝撃的な話だった。
そして、脳の中では実現しているので、
やる気が起きないという構図だ。
まあ、人間の脳は画面の中の人間と実物の人間を
区別できないぐらいお粗末なので、
それも有り得そうな範疇だ。
もちろん、
目標を人に宣言することで自分にプレッシャーが掛かる、
という場合もあるので一概には言えない。
だが、「相手に認められる」というのが、
確かにキーにはなりそうだ。
僕の話で言うと、
このブログを続けるに際して、
基本的にはやること自体は度々人に宣言してきたが、
少なくとも続ける、という目標とかについて、
人には何も認められていない。
認められていないというのは、
誰にも肯定的なコメントを(もちろんネガティブなコメントも両方)もらっていない、という意味だ。
確かに、もう十分続けたよ、とか、
素晴らしいブログだよ、
と言われた瞬間に、
なんだか半分叶ったような気分にはなりそうだ。
そういう宣言した目標がある一方で、
人には言っていない壮大な目標が、
僕にもいくつかあるが、
確かにそれは言っていないのに、
自分の中で行動はちゃんと進んでいる。
人に言わない、という選択肢は、
確かに人に肯定的なコメントをもらいがちな環境においては、
全然あってもいい気がする。
特に会社組織では有言実行がよしとされることが多いが、
必ずしもそうでなくてもいいのでは、
という選択肢を与えてくれる、非常に意義深い発見だ。
ダブルバインドに気をつけよう
心理学を少しかじったことのある人にはおなじみだが、
書籍のタイトルなんかで最近は非常によく見かけるが、
知らない人はそのまま引っかかる可能性があるので、
世の中に一度忠告しようと思う。
僕のブログのタイトルにもよく使うが、最近では
「なぜ仕事は30分刻みで休むのがいいのか」なんかがそうだ。
TVCMではもはや濫用の域だが、
「このビールが美味しいのは、コクのせいか、それとも喉越しか…」
的なやつがそうだ。
ダブルバインドとは、
「どっちに答えても相手にとって都合のいいように、
予め答えが縛られる話法」だ。
ビールの話で言うと、
聞き手がコクのせいだと思おうが、喉越しだと思おうが、
どっちでも少なくともビールが美味しいことは変わらず、
広告側としては狙い通り、消費者にそういう先入観をもたせることができる。
言い換えれば、この話法は相手に伝えたいことを
無意識レベルで伝達するのに優れている。
直接的に、
「このビールは美味しいですよ!」
と言っても、大抵は
「え、本当かな?」
と意識に抵抗されてしまう。
しかし、ダブルバインドを使うときは、
それが主張として表出しないため、
前提として刷り込まれてしまいやすい。
ここまでの話を、「本当?」と思っている方は鋭くて、
ダブルバインドの使用には、前提として相手がその人の話を聞こうとする姿勢、
いわばラポール(信頼関係)が醸成されていることが必要だ。
だから、営業トークなんかでは中盤から終盤にかけて使うのがいいのだろうが、
書籍なんかでは、多くの人は著者の肩書や出版社でたいてい先入観を持つので、
それがそのラポールにすでになっていることがある。
こういう場合は、その主張に騙されやすいので、注意しなければならない。
これを知識として知っていれば、
書籍やCMなんかではもう死ぬほど使われていることがわかるので、
騙されることはあまりないが、
知っていない人は、一生広告に踊らされる。
まあ、ある種マニアックな僕のブログに興味を持つ人は、
最後に、僕がこの辺を昔勉強していたときに読んだ、
おすすめの書籍を少し紹介しよう。
読んでからもう6年ぐらい経つので、
どんな内容だったか細部までは覚えていないが、
非常にわかりやすく、
アスペの僕でもコミュニケーションですぐに役立った、
ノウハウが沢山載っている。
NLPなんかに興味がある人は、
このあたりの入門書がいいのではないだろうか。
【追記】
「ビールが美味しい」ということが前提というわけだ。
僕がこっちの呼び名の方が本質的だと思うのは、
使うときも何かを前提にして話す、
ということを意識しさえすれば、
いちいち何がどうバインドされているか、
なんてことを考えずにすむからだ。
あなたの部下が何も主張をしなくなるたった一つの理由
自分の部下が本当は思っていることがたくさんありそうなのに、言ってくれない。
思ったことがあれば言うように伝えているし、発信する姿勢が大事だとも指導している。
それなのに、言ってくれないようなことはないだろうか。
あるいは、あなたが逆の立場で部下の場合、
上司からは上記のような指導をされているのに、
言う気になれないなんてことはないだろうか。
僕は大ありだ。
前職でこんな経験をしたことがある。
頭では自分の考えていることを主張した方がいいことはわかっているし、
それが組織としても建設的なのは理解している。
なのに、主張する気になれない。
言っても仕方がないと思ってしまうのだ。
なぜ、こんなことが起きてしまうのか。
僕はこの性質を知ることで、
大いに納得した。
それは、学習性無力感と呼ばれるものだ。
何かと言うと、
人は特定の対象に抵抗しても成果が何も出ない状況に連続的にさらされたとき、
抵抗することをやめてしまう現象だ。
(進化生物学的な考察は今回は整理できていないので、
またの機会にする)
しかも、非常に現象として面白いことに、
この現象は人に伝染する。
僕の場合は、
自分のやりたいことなどの意志を見せても、
やるべきことの方が大事だということで、
それを否定するようなことしか言われない環境だった。
するともう、
何を言っても通じない、
聞き入れられない、
言うだけ無駄だ、
と無意識レベルで認識するようになる。
そうすると、思ったことがあっても何も言わなくなる。
だから、組織において、
メンバーが自分の思っていることを言わなくなったとしたら、
すでにその組織では、言ってもどうせ受け入れられない既決感が蔓延していながら、
上はメンバーが自発的に発信するべきだ、
しない方が悪い、などと立場の弱いメンバー側のせいにして、
思考停止している可能性が高い。
自分がもし、そういう状況に遭遇したら、
積極的にその無効力感のない状態を作るように心がけたい。
人が真ん中を選ぶ心理の本質
そんなものは無くすべきだと、
選択したいがゆえに、
ピンポイントの提案は受け入れられないのではないか、と。
他にもっといい選択肢があるんじゃないかと、疑うためだ。
だが、物件選びでもそうだが、
だいたい相場がわかってくると、
最初の薦められたものがよかった、
なんてことが結局起きたりする。
これは何が起きたかというと、
全体を網羅的に把握する(した気になる)ことで、
自分の選択肢が正しいということに、
納得感を得られたのだ。
なるほど、
この話はすべての選択行動において言えそうだ。
飲食店でよくある話で、
コース料理が三つあったら大体みんな真ん中を選びがちだが、
実はそれが一番コストパフォーマンスが悪い、
というのもそうだ。
なぜ真ん中を選ぶかという理由には見栄など諸説あるが、
今回の話を踏まえると、
一つの大きな理由として考えられるのは、
全体の相場を理解した気になった上で、
一番納得度の高いものを選択しているというわけだ。
どう考えたってその費用対効果はわかるはずがないのだが、
安いものと高いものを見せられると、
安いものは悪いんじゃないか、
高いものは良すぎるんじゃないか、
という相場を勝手に自分で作り出し、
じゃあ、そこそこのパフォーマンスを出しそうな真ん中に落ち着く。
「あなたにはこれが合うよ」と言われても、
それが本当に正しくても選べない理由。
それは、納得度の問題なのだ。
モチベーションよりプロ意識が大切というのは本当か
この記事を見てどう思うか。
(モチベーションを下げるもの)であったとしても、
「仕事するの嫌やわー」と言っている、
しかし保険代理店で高い顧客満足度を誇る、
おばちゃんたちを例にとって説明している。
ふわふわした言葉の定義にもよるが、
プロフェッショナルを発揮しているのであって、
自発的にやっている。
ある意味やりたくてやっているわけだ。
プロ意識をも含む、モチベーションが重要である
好きであることは得意であることの必要条件だ
IQの差が20開くと会話が成り立たないという説があるらしいが、
この言葉だけ聞くと、そんなことあるのかと思ってしまう。
でも実はこれと同じ話で、僕達が普段何気なく言っている、
細かいことが私はできるとか、僕は苦手だとかって、
本当にそんなことってあるのか、
と思わないだろうか。
でも実際、僕達の経験から言って、
そんなことは大ありだ。
じゃあ、このできないとか苦手って、
実際どういうことなんだろう。
結論から言うと、僕は根本的にはやる気の問題だと思っている。
冒頭のIQの差が20開くと会話が成り立たないというのは、
物理的に本来はありえない。
だって、お互いに同じ言語を話しているのだから、
頑張って歩み寄れば少なくとも会話し続けることができるはずだ。
だが、現実には、
会話するもの同士がお互いに見えているものが違いすぎて、
会話が噛み合わないことがストレスとなり、
成立させる意欲が失われ、ついには会話しなくなることがある。
これと同様に、
細かいことが苦手だというのは、
物理的に本来ありえない。
だって、経費精算の項目を埋めるのにしろ、書類を整理するのにしろ、
別にフェルマーの最終定理を証明させられているわけではないので、
一つ一つ丹念にやれば、小学生でもできるはずだ。
だが、現実には、
こういう細かい作業をしていると、
あまりの進まなさや、どうでもいい感がストレスとなり、
続ける意欲が失われ、ついには進められなくなる人がいる。
(僕がそうだ)
だから、こうした
できるできない、向いている向いていない、得意不得意という話は、
実は掘り下げてみると、
その人がその事象に対して向き合い続けられる適性であることがわかる。
また、適性であるからこそ、やる気の問題でありながらも、
やる気を出せばいい、という根性論ではないことも分かる。
そして、逆にこの自分に適性のあること、
つまり自分がやっていて苦痛でない、あるいは楽しいことというのは、
人よりも続けることができる。
だから、得意になる。
え?下手の横好き?
言いたいことはわかるが、僕の中では、
「好きこそものの上手なれ」と
「下手の横好き」は矛盾しない。
これはまた別の機会で話そう。
一度死ぬ目に遭ったことのある人のモチベーションコントロール術
僕がフォローしているホリエモンなんかはよく言っているのだが、
これが僕にとって勇気の源なのだが、
したがって、この死ぬことをリアルに想像できる人は、
現代において最強だ。
別に心理学とか啓発本とかにあるような、
難しいことは一切考えず、
ひるみそうになったらとにかく、
あの時死にそうになった場面を思い出す。
全てが1000倍以上はマシに思えてくる。
文章で読むと本当に笑い話だが、
後から思えばくも膜下出血とかだったんじゃないかと思うのだが、
幸い今の今まで何もなかったから大丈夫なんだろう。
あとは、自分の身近な人を亡くすのも同等だ。
彼の将来が今この時点でないということを、
自分に当てはめると相当ぞっとする。
僕は死ぬまでにまだまだやりたいことがあるからだ。
死を身近に感じた人は、何かに挑戦するとき、
自己暗示のように「死ぬよりマシだ」と思うようにすれば、
万事うまくいくだろう。