日常の分析

受動的な能動的現代人

また矛盾したようなタイトルになってしまった。

今日ふと思ったのだが、僕たちが日常的に何の気なしにインスタグラムやツイッターを開いてコンテンツを読んだり、広告をクリックするのは、果たして能動的なのだろうか。

一般には、テレビは受動的なメディアと言われている。それは、放映時間や視聴できるコンテンツが放映側によって強くコントロールされており、視聴者に自由がないからだ。

一方的に垂れ流すというニュアンスで、受動的ということだ。

一方、昨今はインターネットの発達で、能動的に情報を取りに行く時代だ的な話をよく聞くが、まあ、確かに検索して見つける分にはそうだろう。

しかし、インターネットの黎明期こそ、検索がメインで能動的だったのだろうが、今のスマホをいじくる現代人の有り様は全く能動的に見えない。

自分の本能や嗜好性、習慣によって自動的に運転され、自動的に流れるコンテンツを消費している様子は、どう見たって受動的だろう。

まあ、フォロワーを「選び」、コンテンツを「選んで」いるので、100パーセント受動的とは言えないかもしれないが、じゃあ、その能動性は、テレビのチャンネルを選ぶのとどれほど違うというのだろう。

現代は、過去に比べて能動的に情報や環境をコントロール出来るようになったと思われるが、実は選択肢が増えただけで、能動的か受動的かという部分は殆どの人は本質的には変わっていなくて、ただ、コンテンツを垂れ流して受動的に生きているように僕には思える。

変に能動的に、主体的に生きていると思うのは簡単だが、その実、実は悪しき習慣や自分の嗜好性に操られて時間を消費しているのが現代人の実態だとすれば、本当に自分は能動的に情報を選び、生きているのか、今一度問いかける必要があるんじゃないだろうか。

感情的に判断することは、実は合理的かもしれない

矛盾するように聞こえるが、今日ふと気づいたことだ。

僕たちの感情は、おおよそ本能が形作られたお猿さんの時代に根ざしており、当時はこの感情が合理的だった…という話は僕は好きだが、今回はその話ではない。

現代においても合理的な場面が多々あることに気づいた。

例えば、僕は気分で働く場所を変えるが、そこに論理的な理由はない。

今日は家にいよう、今日はこっちのカフェに行こう、次はマクドナルドにしよう…

これらを直感で決めることは、意志決定に使う精神力を節約することにもなるし、合理性を思考し、比較する時間の節約にもなる。

よくよく考えてみると、隣り合わせで並んでいるカフェで、どっちで仕事をしようか、というのを完全に論理的に意志決定しようとすると、それだけでかなり疲れる。

・空いていそうか

・うるさくないか

・飲み物は美味しいか

・飲み物のコスパはいいか

・長居しやすいか

・雰囲気はいいか

・気分が乗って生産性は上がりそうか

これらを全て網羅的に考え、それぞれのインパクトの大きさを見積もり、補正係数をかけ、比較する…というのは、アカデミックの世界でこそやるけれども、日常のこんなカジュアルな意志決定で毎回するのは馬鹿げている。

感情的な意志決定は思いのほか合理的なのだ。

—-

そもそも、論理的思考で拾える情報空間には限界があるので、正しく評価することが出来ない可能性すらある。

だって、そこにいて地震が起きて建物が倒壊して死ぬリスクなんか、誰にも見積もれない。

通常は無視するが、無視する時点で既に完全に論理的な意志決定ではない。

あくまで近似という論法で出した答えに過ぎず、正確ではないのだ。

無視できない塵も積もれば山となり、結果を大きく左右する。

以前述べたように、意志決定の対象の大きさによって、真の意味で論理的に意志決定ができるかどうかは決まる。

カフェの例を鑑みると、案外その可能性の分岐点は、小さな意志決定なのかもしれない。

人々のニーズに応えることは本当に世界をよくするのか?

平たく言い換えると、売れるから売るという行為は本当にいいことか?ということだ。

ビジネスの存在意義は、世の中をより豊かにすることにある。

お金が儲かるのは、その豊かさを人々に提供する対価を受け取るからだ。
(起業家のモチベーションがお金にあるとかは全然構わないと個人的に思っている)

しばしば勘違いしがちだが、人は必ずしも本質的に豊かになることにお金を使わない。

わかりやすさのため極端な例で恐縮だが、

ギャンブルやアルコール中毒の人がお金をギャンブルやお酒に費やすのは、本当にその人を豊かにするためだろうか。

度が過ぎた肥満の人が、過度に糖質を含む食品を買うのは、本当にその人の今後の人生を豊かにするだろうか。

もう少し微妙な事例がある。

水素水というものが数年前から流行っている。最近はジムなんかでもよく置いている。

だが、健康へのプラスの影響は立証されていない(らしい)。

マイナスイオンドライヤーもそうだ。

マイナスイオンというのは、電気的に中性の原子がエネルギー的により安定するために、マイナス荷電の電子を取り込んだ状態のことだ。(中学3年生の知識なので、本来であれば義務教育を受けた全国民が教養として知っていることである)

特定の原子のことではない。

だが、どの商品を見ても、なんの原子がイオン化しているのか説明はないし、そのイオンがなぜ髪にいいのかも化学的な説明もない。

(※一応断っておくと、これらの事例が実際に正しいかどうかはここでは大した問題ではなく、重要なのはそういう事象があり得るとい
う可能性の方だ)

モノやサービスというのは、本当にそれに価値があるから売れるのではなく、

正確には人がそれに価値があると感じるから売れる。

つまり、本当は価値がないけれど人が価値があると感じてしまえばそれは売れることになる。

この現象はまるで詐欺のようだ。

ブランドのロゴのように、人が価値を感じる事自体が価値となることもある。

それは人が価値観で決める部分を豊かにしているから全然構わない。

だが、上記の例のような物理現象をはじめとする、人の価値観で効果が決まらないものに関しては大問題だ。

本当はよくなってないのに、よくなったと錯覚するために人はお金を払うのだ。

やっぱりこれは詐欺と同じだ。違うのはものやサービスを提供する側に悪意があるかどうかだけだ。

世の中への影響という意味では詐欺と何ら変わらない。

殺人をした人が意図的であろうとなかろうと、死んでしまった人とその遺族にとっては大した問題じゃないのと同じ構図だ。

見方によっては、その人が幸せと錯覚していようが、幸せを感じるならそれでいいとも言える。

僕はその価値観は否定はしない。

だが、もし本質的な解決が可能なのであれば、そして人がそれを選ぶことができるのであれば、本質的な解決を選ぶべきだと思う。

人が勝手に誤って購入してくれるから、という理由で売れてしまうものは世の中に存在してはいけない。

少なくとも、メタな視点で問題を認識している事業開発側の人間は、情報の少なさ故正しく判断ができない消費者と違い、その責務を負っているという自覚を持ってビジネスを作っていくべきなんじゃないだろうか。


ゲームに見る仕組みの重要性

ゲームなんてバカバカしいと思う人もいるかもしれないが、
人の挙動が反映されるという意味では、
非常に面白い社会実験のフィードバック装置でもあるのだ。

さて、僕は大してゲーマーではないが、
やり込んだゲームの中に、
ある対戦アクションゲームがある。
一対一で戦うのだが、
そのゲームをある程度極めると、
先手を打った方が負けることが分かってくる。
なぜなら、攻撃の発動までに時間が0コンマ数秒あり、
その瞬間に反応のいい人は攻撃が見切れてしまい、
攻撃をした側の隙につながり、結果的に攻撃した方がやられる。

こうなると、相手の出方を伺う方が有利になり、
自発的に攻撃をしようとしなくなるのだ。

新作では、そこに開発側も気づいたのか、
攻撃にフェイントがあったり、
攻撃をしばらくしない側にペナルティが発生したり、
自分以外にパートナーに攻撃させられたり、
といった新しい仕組みが導入されていた。

これは、社員が新しい取り組みをやると、
損をしてしまう大企業の仕組みに似ている。

新しい取り組みというのは、
自分の既存の業務に割くリソースを食う上に、
何かしらの変化とリスクを伴う。

新しい取り組みに対して評価基準が敷かれていない場合、
やるだけその人は損をすることになる。
むしろ、何もしないで自分のいつもの業務に力を入れるほうが、
万事うまくいく、というわけだ。

これは、個人最適と全体最適がずれている典型的な例だ。

仕組みレベルで新しい取り組みができない様になっているので、
そこを変えることは必要条件だ。

もちろん、仕組みを変えただけでは人は動かないので、
同時にそうした風土を組織内で醸成することも必要なのだが、
知人たちから聞く話では、多くの企業は社員にそうした取り組みをしろと言うだけで、
仕組みの整備をしていないように感じられる。

あなたの企業は、両輪で整備が進んでいるだろうか?
今一度、点検されたい。

パレートの法則に基づいた成長の方法論

問題

あなたの子供が中学受験をした。
結果は以下の通りであった。
・偏差値70超の一流私立中学に滑り込み合格
・偏差値60超の準一流私立中学に上位の成績で合格
子供の普段の成績から見て、今回の受験結果は妥当だった。
子供の勉強の成績を今後更に伸ばすには、
どちらに行かせるべきだろうか。
まず結論から言うと、
組織では基本的に自分が確実に上位20%に入れる場所にいる方が、
成長速度は速くなる。
これはもちろん極論では個人で異なるが、
多くの人が間違った認識をしている。
まず例題で解説すると、
少なくとも成績を伸ばすという目的においては、
後者の上位で合格した中学に行くのが正解だ。
学校のレベルが高い方が周りのレベルも高いのだから競争して成績がさらに伸びるのでは?という期待で多くの親は前者の滑り込み合格した学校に行かせるのだが、
それは間違いだ。
そんなことは各名門校の入試実績を見れば簡単に分かる。
あの開成や灘でさえ、最下層はMARCHクラスの大学に甘んじるのだ。
一方、準一流の私立で上位の入学先は、ほぼ東大や京大、あるいは医学部だ。
フラットに考えて、入学でビリだった人間が、
その後上位に入るケースは稀だ。
一方で入学で上位だった人が、その後も上位であり続ける方が確率的には高い。
自分の子供だけは違うと考えるのは、
宝くじが自分が引いたヤツは当選確率が人よりも高いと考えるのと同じで、
全く論理的じゃない。
だが、重要なのはここからだ。
問題はじゃあなぜ超一流の名門校に入ったにも関わらず、
上位でない人たちはそのポテンシャルの高さに見合わない成績で終わるのだろうか。
これを説明するのがパレートの法則だ。
念のため説明すると、パレートの法則とは俗に80:20の法則とも呼ばれるもので、
労働者の稼ぎの80%は年収上位20%の人の合計からくるとか、
仕事の成果の80%は使った時間の20%で決まるとか、
そういう世の中の現象をうまく説明する法則の一つだ。
組織では、上位20%の人が優秀な成績を収めるが、それ以外はみな平凡以下になる。
先の話に戻ると、
開成の上位の目標が東大に縛られる限りは、
上位が他の準一流の学校と近い成績になるため、
自動的に下位がポテンシャルよりも低いレベルに落ち着くということだ。
(今年は開成が海外の大学に進学させているので、
今後の動きは気になるところだ)
開成や灘などの超一流の名門校ですら、
その有様だ。
それほどまでにパレートの法則は強力だ。
世界中の現象がパレートの法則に従っている。
自分だけが例外だとは思わない方がいい。
繰り返しになるが、
ここから導き出される結論は、
成長を目的にしたとき、
自分が所属するべき組織は自分が上位20%以内に入れる場所を選ぶべきだ、
ということになる。
追記
僕が前職を退職してよかったと思っていることの一つはこれだ。
僕はどう考えてもサラリーマンという評価軸では、周りに勝てる見込みがなかった。周りがあまりにも優秀過ぎたのだ。
僕みたいに空気が読めず自我が強い人間は組織において、
ごく稀に面白がってくれる人がいるだけで、基本的には毛嫌いされて終わる。
そして実際に僕の社内での評価は最低ランクだった。
別の部署の組織長からも悪評が立つほどだ。
一度こうなってしまうと逆転は難しい。
ゲームの土俵を変えてしまう方がよほど簡単なのだ。
僕はこれに気づいたとき、起業をした友人の言葉の意味がやっと分かった。
「賢くて優秀な人がいる土俵では俺は勝てない。
だから、自分の土俵を作って戦う。
これは勇気のいることだが、
勇気さえあれば俺にも出来る」
ということで僕も自分のフィールドで勝負をすることにした。
サラリーマンになるには、あまりにも僕は社会不適合過ぎたのだ。

リテラシーとテクノロジーがビジネスの境界を決める

店舗販売というのは、市況感を表していて、

観察するのは非常に面白い。
家電量販店をみれば、
今となってはコンデジ市場はほぼゼロになり、
最近では美容系の家電が増えているように思う。
店舗の中でも、コンビニは消耗品の観点から、
非常に実生活との結びつきが強く、
人々の日常生活の様相を表している。
コンビニでこの前これを見つけて、
思うに至ったことがある。
IMG_0853

今まであんまり意識していなかったが、
ビジネスの境界は、人々のリテラシーとテクノロジーで決まるのではないか、と。
そもそもこの商品は、コンビニコーヒーの延長線上で、
コンビニでお湯を足して飲む系のやつだった。
IMG_0854

開けたらこんな感じ。
IMG_0855

完成。

IMG_0857

これは、甘くてフレーバーの入った若干複雑目な飲み物がメインだが、
コーヒーと同じで、スタバなどのカフェチェーンや、
ボトル飲料のマーケットを取りにいっている商品だろう。

これがまあ今後流行るかどうかで言うと、
味が普通過ぎたので、僕は流行らないとは思うのだが、

そんなことよりも僕がここから得た重要な示唆は、
これが成り立つ前提としては
・人々の商品を扱うリテラシーの高さ

・味をパッケージ化する技術
の二つがあることだった。

多分、これは20年前にあっても、全然だめだろう。
技術はあっただろうが、人々が商品をどう扱うのかに戸惑い、
最初の段階(アーリーアダプター)にすら浸透しない。

10年前でもだめだろう。
コンビニのコーヒーという文化が浸透した今だからこそ、
コンビニの飲料に期待を持てるし、その場で作る合理性が理解できる。

ある意味、今この商品が出てきたのは必然なのだ。

これは何もカップ飲料の話だけじゃなくて、
ほかの商品もそうだ。

例えば複合機だって、人々が家なりオフィスなり学校なりで、
なんとなく使い方を知っている(=リテラシーが高い)からこそ、
成り立っている。

いろんな場面で人々のリテラシーが高くなってきているのだ。

その意味で、全く同じ物がただ便利で合理的だという理由では、
海外のマーケットには受け入れられない可能性が高いことが推察される。

こうした文化はかなりリテラシーと技術双方が高い、
日本独自のものが多いと思うので、
海外に行った際には、違いを見てみると非常に面白いだろう。

外人が日本語習得で難しいのは「漢字だ」という嘘

レベルにもよるが、

そこそこ習得した外国人にとって、

一番の難関は実は漢字ではないという話を、

一緒に仕事をしているアメリカ人のMさんから聞いた。

じゃあ何が難しいのかというと、実は

カタカナなのだ。

「漢字は分解すれば分かる」そう。

部首の意味や由来について、

僕はあまり詳しくないので、

そんなに分かるのかどうかは不明だが、
少なくともカタカナが難しいことは、
言われてみれば理解できる。
従来の日本語にない、

ありとあらゆる内容がカタカナにまとめられるので、
そもそも英語である保証がない。
しかも、英語だったとしても、
発音が違うように表記されることもある。
さらには、見た目で意味がわからないので、
実際に発音してみないと、
一語のまとまった発音が分からない。
なるほど、確かにカタカナは難しい。
【追記】
ちなみに、言語や単語の種類によっては、
発音がそのままのことがある。
例えば、スペイン語は母音が日本語と同じなので、
パエリヤなんかはほぼそのままだし、
地名はそのままのものが多く、
ローマなんかは発音がほぼそのままだ。
こうした違いは、やはり地政学的な影響が大きいのだろうか。
言語とは、非常に面白いものだ。

知らない内に日本が拳銃の脅威にさらされている件




日本ってそんなに危ない国なの?
なんでレビューが何十件もついてるんだ。
僕が昔出した英語の勉強本よりもよっぽど人気じゃないか。
しかもお急ぎ便で勧められてるってどういう状況だよ。
僕が知らないだけで、
急に戦地に駆り出されることって実はあるのか?
レビューを見るのが怖い。
だって、みんな
「テロ組織とやり合ったときに2、3発当たりましたが、他の人のレビュー通り貫通しませんでした!」
とか書いてるんでしょ?
悪いレビュー書いた人って、
「こないだニュースにもなってた強盗事件で撃たれたのですが、この商品は二発目以降には弱いです。」
とかでしょ?
無理だよ。
そんなの読みたくないよ。
冗談はこれぐらいにして、
誰が買うのかと思ってレビューをみたら、
サバゲー目的で買う人が多いみたいだ。
特に1番上の安くてレビューが一番多いやつはそうだ。
2つ目以降のガチそうなやつは、
ある人は夫婦喧嘩で刺されそうになったから、
ある人はパラグライダーの森林への墜落時に備えて、
みたいな、すごくニッチなニーズで買われているようだ。
夫婦喧嘩は本当かどうか分からないが。
勉強になった。

ウォシュレットに見る本質を捉える力の有無

前から気になっていたことがある。

トイレのウォシュレットは本当に綺麗になるのだろうか。

僕は人間の糞がどういう成分で構成をされているのか知らないが、

少なくとも、
「水で洗えば綺麗になる 」
などと何も考えずに盲信するのは危険じゃないだろうか。

だって、仮に油脂成分が多かったら、
水で一切取れないんだから意味ないじゃないか。

こんなのは小学生でも疑える話だ。

この事例は、泡で出てくるハンドソープが、
別に洗浄力が上がっているわけでもないのに、
通常のハンドソープよりもウケたことに似ている。 


泡の方が細かいところまで入るなんて思っているとしたら勘違いも甚だしい。

泡になって弾性と表面張力のある球になるより、
液状のままの方が細かいところに入るに決まっている。

こうしたことを日常的に疑ったことがないと、
本当にあの馬鹿みたいな水素水を買わされるはめになってしまう。


 

ところで、本質の別観点の話だが、
統計のリテラシーが低い人と話すと、
僕がよく戸惑うことがある。
たとえば、以下のステートメントは正しいだろうか。
「Aさんが最新の化粧水Xを使ったところ、肌の調子がいい。
したがって、化粧水XはAさんにとって効果がある。」

もちろん、これは誤りで、
「この情報だけでは判断できない」が正しい。
化粧水Xを使わないというサンプルでも経過を確認しなければならない。
もしかしたら前の化粧水が悪かっただけで、
何もしなかったら実はもっといい状態になるかもしれないからだ。
それで、関連してもっと僕が疑問なのは、
なんで数ヶ月とかいう身近いサイクルで、
こうした美容系の新商品が出来上がるのかと。
厳密には薬と同じで、
長期的な臨床実験を経ないと効果は分からないはずだ。
最近流行った水素水の顚末を笑っていた人は多いだろうが、
僕にしてみればこうした美容品も同じだ。
それ、本当ですか、と。

僕も気づかないうちに何も考えずに思い込んでいることは多々ある。
何事も自分で考えるようにしたいものだ。

人と話が食い違ったら 2/2 〜価値観のボキャブラリー〜

これはその友人Hの友人Xのエピソードだ.

Xは勉学をとても頑張っていて,成績もとても優秀だ.
その理由は,金を稼ぐためだ.
また,親のことを憎んでいるそうだ.

Hはそれらに対して,嫌悪感を抱いた.
彼が純粋に好んでいる勉学というある意味神聖なものが,ただの金を稼ぐための道具として位置づけられたからだ.また,Hは親を愛しているからだ.

しかし,話してみると,HはXの考え方を受け入れられるようになった.

聞いてみると,Xの親は膨大な借金を抱え,その負債を相続の関係でXが担うことになっていたらしい.
Xは自分に対してそういった仕打ちをする親の無責任な振る舞いが許せなかった.
そして,彼は自分で少しでも多くの金を稼ぐため,勉強を頑張っていた.

そんな背景を聞かされると,多くの人が彼の意見を少しは受け入れられるようになるに違いない.

しかし,「勉強は金儲けの手段」「親を憎んでいる」のこの2点だけを聞くと,多くの人には反発の感情が湧くだろう.

人の考えの背景を知ることは,こんなにも重要なことなのだ.
そして,この背景は往々にして自分の価値観に縛られた中では,到底想像のつかないものであることが多い.
考えて分かるものではないのだ.丁度,単語の意味が考えても分からないのと一緒である.

この,人の価値観の多様性に関する知識を,「価値観のボキャブラリー」と呼ぶことにしよう.

これが多いほど,対面で人の考えが理解できるようになり,その結果として意見を受け入れやすくなり,怒りやいら立ちをより感じにくくなると僕は考えている.
単語の意味をたくさん知っていればいるほど,文章の理解が深まるのと同じである.
(もちろん,既知の価値観を人に当てはめて理解した気になってしまわないように注意する必要がある)

そして,相手へのそういった柔軟な受容力,包容力というのは,人との関わり合いにおいてプラスに働く.

だから,価値観のボキャブラリーは増やさなければならない.

しかし,残念なことに,多くの人との関わり合いの中では,その人の考えの裏側に潜んでいる価値観までをその都度聞くことは出来ない.そして,価値観のボキャブラリーを増やすには特定の人と深く繋がり,話をする必要がある.これが,多様な価値観が受け入れられるには時間がかかる理由である.

少しでも価値観のボキャブラリーを日常的に時間をかけて増やすことで,受容力がある人間に僕はなりたい.…僕の独りよがりかもしれないが.

追記1.
Hからこのエピソードを聞いてから,僕はまた一つ,口癖が増えてしまった.
それは,「なぜそう思うの?」だ.
人によってはこの「なぜ」が最高に鬱陶しいらしいのだが笑,僕としてはその人の価値観を知らずに,
相手にとって間違った意見を押し付けたくないという思いがある.
今後,そもそも聞かれたくない人に対して聞かない,というスキルを身につけるのが僕の目下の課題である.

追記2.
価値観のボキャブラリーを簡単に増やす便利な単語帳ってないんだろうか?
その答えの1つは小説である.
小説が人生を豊かにする理由の一つは価値観のボキャブラリーの構築にあると思う.