生き方

あなたは専門家か,分析家か,思想家か(1/3)

思いついたんだから仕方ない.メモメモ…

というわけで,更新をしてしまいました.
前からすごく疑問でもやもやしていたことが少し体系的にまとめられた気がします.

しかし,ブログって難しいですね.
前回と前々回みたいに,少し内容が雑になると,それがなんとなく伝わるのか,
あまり人の心に響かないようです.自分の中ではどの記事も同じぐらい大事だし,
面白かったことなんですが,面白いかどうかを決めるのは読者の皆様なので,反省します.

自分との約束というのもあったので,多少雑なままアップしてしまいましたが,
今後はクオリティを最優先です.

やっぱり,いいものが一番いいですよね.
僕はなんでも一番がいいです.

 
さて,今回はまたビジネス系の内容です.
とても長くなりそうなので,3回ぐらいに分けて書こうと思います.

僕はいつもこの世の中に疑問ばかり抱いている.
本当に世の中は分からないことに満ちている.

その中の1つは,「潜在ニーズと顕在ニーズのどちらを汲むべきか」である.
両者は僕にとって完全なる二項対立であった.
(両者の説明は割愛するので,分からない方はこちらなどを参考にしてください)

どっちを汲むべきで,汲むべきだとすればそれはなぜだろう.
疑問を抱いた当時の僕に自分の答えは出なかった.
出せたのは,せいぜい「自分が所属する会社の好みや方針で決まっているだけ」もしくは「自分がやりたい方をやればいい」ぐらいの浅薄な答えだった.

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僕が大学3年生の頃,iPhoneが徐々に周りで流行りだした.そして,iPhoneがヒットしだしたその頃から「潜在ニーズを汲み取ろう」とか「自分の作りたいものを作ることが大事だ」などとよく聞くようになった気がする.そして,その潜在ニーズを汲み取ることはすごいことなんだ,と.
(僕は社会人ではなかったので分からないが,その程度のことは巷では当たり前によく言われていたことなのかもしれない)

潜在ニーズの説明で頻繁に事例として用いられるのはご存知の通りiPhoneだ.
「顧客が『手のひらに収まって,ボタンがなくって,すっきりした見た目のガラス張りのコンピュータみたいな携帯電話が欲しい!』なんて言うはずがない」
などといった感じだ.

その一方で,就活を始めてビジネスの世界に少し首を突っ込んだところ,「市場調査をしろ」とか「顧客のニーズを調べろ」なんてことをよく聞くようになった.
こっちは主に顕在ニーズの重要性を説いていることが多かった.

あれ?潜在ニーズは考えなくていいんだろうか?
顕在ニーズと潜在ニーズってどっちがいいんだろうか?

そんな大切なことは就職活動で誰も教えてくれない.
(が,今思えば本は教えてくれたのかもしれない笑)

結局その時分かったのは,世の中では潜在ニーズと顕在ニーズを汲む2種類のニーズベースのビジネスの仕方があるらしいということと,メジャーなのは顕在ニーズ派で,潜在ニーズを当てられるのは,ジョブズみたいにすごいことらしいということぐらいまで.

以来,僕は割と最近まで,なんとなく顕在ニーズが堅実派で,潜在ニーズがやや冒険派な感じがしていた.

だって,そうだろう.
顕在ニーズは見えているところにアプローチするわけで,よほど失敗しない限りは手応えはあるだろう.
でも潜在ニーズは全く見えないところに確率論で挑むわけだ.大きなリスクを背負うことになる.
(もちろん,顕在ニーズのビジネスですら現実には簡単じゃない)

しかし,自分でビジネスコンテストに参加したり,日常的にビジネスを考える癖がつくようになってから,とても面白いことに気づいた.

一見堅実そうな顕在ニーズ派には大きな欠陥があるらしく,
その一方で,一見冒険志向潜在ニーズ派は思いの外堅実らしいことに.

これはなぜだろうか?
表出している顕在ニーズを汲むほうがヒットは確実だし,当たるかも分からない潜在ニーズを「当たるはずだ」と信じてビジネスをする方がよっぽど博打に近そうなのに. 

「言葉が出てこない」状態に関する考察

ブログ更新マラソンが最終日です.
明日から僕は修論の執筆と制作中のiPhoneアプリにリソースを割こうと思います.

しかし,ブログを公開したり,アプリを作ったりと初めての経験をしないとなかなか気づかないことって多いものですね.考えやすい僕にとってはとてもいい薬になっています.

さて,今回は前回の言葉関連のテーマです.

皆さんも何度も経験があると思うが,「言葉が出てこない」という状態に陥ることがたまにある.
分かっているようだし,頭のなかに言いたいことが何かあるんだけれど,言語化できない.
そう,あのなんともむずがゆい感覚だ.

あの状態を,僕は実は考えが整理できていない状態と全く同義だと思っている.
(ここでは,ものの名前が出てこない現象は切り分けて考える.名前を想起するというのは別のメカニズムだからだ)
本質的には,言語の正確さが思考内容の正確さを如実に表しているということだ.
なぜなら,前回述べた通り,言語は思考内容そのものだからだ.

これに関することだが,僕が昔アルバイトをしていた塾の塾長が面白いことを言っていた.

「分かる,ってどういうことか分かるか?
分解,という熟語は両方とも「わかる」と読むだろう?
分解することは分かることだ.」

「生徒が分かっている状態かどうかは,自分で説明できるかどうかで判断できる」

これらは両方とも,本質的には言語化出来ることは即ち思考できていることであり,自分の頭の中で体系化出来ている,ということを示唆している.

分解の方が少し分かりにくいかもしれないが,分解出来るということは
そのものごとの要素を見抜いているということと同義であり,そのものごとを綺麗に体系化できているということなのだ.

 つまり,曖昧な言葉が出てくるときは,その人の思考内容は曖昧でまとまっていないということだし,
しっかりと説明できるときは,自分でものごとを理解しているし,体系化できているということだ.

蛇足だが,勉強でもなんでもアウトプットが重要ということがしばしば言われるが,その理由はこれである.自分でアウトプット,即ち言語化(それはときに数式かもしれない)することで,自分がどの程度の理解をしているのかのフィードバックが明確に得られるからだ.

蛇足その2だが,感情を表現するときはしばしば言葉に詰まる.
あれは,感情自体が複雑に絡み合ったものであり,体系化するのが困難だから当然の結果なのである.

自分が何かを話そうとして,言葉が出てこないときは,一旦自分の考えをまとめ直してみよう.

そうすることで,相手との議論は,きっとよりよいものになるだろう.
 

<エピソードによる補足>
 かつて就職活動中で参加したインターンシップで,ジョブをやった.
みんな優秀なので,僕はとても萎縮していた.

今でも鮮明に覚えているのだが,そのグループの中のメンバー の一人が言った言葉がある.

「そこには旨味があるね」

僕は彼の言った言葉を必死に理解しようとした.が,結局僕の思考力では及ばなかった.

さっきの文脈からのこの言葉の位置づけは何なんだろうか?
具体例か?根拠か?事実か?論理に裏付けられた結論か?直感か?

一体なんなんだ??何を言っているんだ?
うまみってなんなんだよ…

そして,僕は思考を一旦やめ,こう思った.

こいつ…マジすげーな…

しかし,今ならこの現象が分かる.

彼は,考えがまとまっていなかっただけだ.もしくは直感的に何かを感じたのを伝えたかったのだろう.
そりゃ考えても意味合いが具体的に引き出せるはずがない.

議論を続けるうちに分かったことだが,その意味合いとしては,「ここのセグメントには潜在的に大きな市場が眠っている」ということが言いたかったようだ.

また,僕がここから得たこととしては,むやみに比喩を用いるのは危険だということだ.
比喩を用いていいのは,その使用者がそのものごとの構造が理解できており,両者の構造の類似性を確信したときだ.

このような事例をみると,接続詞や語尾などが非常に重要であることが痛いほど分かる.

議論で混乱を招かないためにも,言葉は正確に使いたいし,ブレインストーミングなどの議論の発散段階ではない場では,なるべく思考内容を整理してから言語化するように努めたいところだ. 

言葉の選択の重要性

とりあえずは一週間,毎日同じぐらいの分量で更新することを目標にした.(今日は本当にぎりぎりセーフだった.)一週間経つころ,おそらく現在のiPhoneアプリ開発と修論の執筆でさすがに一日小一時間の時間も惜しくなってくるので,更新はしばらく止めます.というか出来なくなります.

その後は週1ぐらいでのらりくらり書こうかなという感じです.


では,今回のエントリです.


僕はいかとうと言われるだけあって,言葉をとても大切にしている.


(その割に語彙が少ないことはここでは棚に上げておく)

大切にする対象は2つある.それは,言葉の内容とその集約先の選択される言葉だ.
両者は完全に独立するのではなく,密接に関係している.


それ故,効率化とか構造化,見える化といった言葉が大嫌いだし,マイナスのことを言うのも嫌いだ.
(ちょっと後の内容との整合性という意味ではあまりいい具体例ではないのだが,いつも思っていることではある)


一見ただの屁理屈のようだが,僕がここまでこだわるのには,当然ながら理由がある.


理由は大きく2つだ.


まず1つめ.


言葉を厳密に選択することは,人を思いやることだからだ.

こっちは選択される言葉という方に対応する.


尊敬するとある教授に教わった,僕がとても大切にしている言葉がある.


「言葉は概念を表し,概念は思考を表す」


選択した言葉にはその人の思考が込められている.


多くのコミュニケーションにおいて自分の思考内容を正確に伝達することは必要条件だ.


その言葉を適当に選択することは,相手に対して曖昧な部分を理解するべく思考を余計にさせることに繋がる.
つまり配慮のなさの表れであり,一種の思いやりの欠如とも言える.


ブログだろうと論文だろうとプレゼンだろうと日常会話だろうと,相手に分かりやすく伝えることはとても大切だ.
僕は少しでも相手が楽になるように,言葉の選択,とりわけその構造と接続関係,そして語尾の3つは絶対に間違えないように選んでいる.


次に2つめ.


言霊を信じているからだ.こちらは前者の内容に対応する.


マザー・テレサは次のような名言を残した.


思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから


言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから


行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから


習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから


性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから 


僕は以前書いたように,非科学的なことは信じないし,この因果関係に関しては多分現代科学で証明できないけれど,この名言や言霊の謂れは真だと思っている.


一度,自分の言葉遣いに注目してみるといかがだろうか.


この2つ以外にも,自分で気づく新たな発見があるかもしれない.

*注1
 僕はこの考え方を人に強制するつもりはないので,
僕と話すときは気軽にいつも通り話して欲しい笑 

*注2 
読み返すと分かりにくい部分が多かったので,(時間に追われて更新するのはよくないですね)説明を追加する.
僕が大切にする言葉の選択の上での3つの要素である,構造,接続関係,語尾についてだ

構造は,全体像とも文章構成とも言い換えられる.
気をつける目的は,今から話すのがどういう内容なのか,というのを明示することだ.
そのために僕は必ず枕詞を置く.
例えば,「これは僕の持論だが」「例えば」「結論を述べると」などがある.

次に,接続関係だが,それは周知の通り,前後の文もしくは文章の関係のことだ.
気をつける目的は,受け手が全体像を容易に理解させることだ.
そのために僕は必ず接続関係を明示する接続詞を適切に用いる.
具体例は割愛.

最後に語尾だが,大雑把に言うと,これは自分が「客観的な事実」,「客観的論理で導かれること」,「自分の直感的,主観的,感情的なこと」の3つの内どれを話しているのかを明確にすることだ.
気をつける目的は,今から話す内容がどういった性質なのか,を明示することだ.
そのために僕は必ず語尾をそれらのどれに該当するのかが明確な言葉を用いる.
例えば,「〜と一般的に言われている」「〜だと考えられる」「直感的には,〜だと思う・感じる」などがある.

最後に,念には念を押しておくと,これらは僕が特に戦闘モードのときにこそ発揮する性質であり,
他愛ないことを話すオフ状態では,そこまで厳密ではないのが現状である.(言霊の方は気にするが)
だから,普段の会話のときに「お前,全然厳密じゃないじゃないか!」というツッコミは勘弁して欲しい.

2014/1/23加筆・修正

上位層の壁を「かけ算」を使って乗り越える

僕には小学校のころから疑問だったことがある.

僕は昔から特に特徴のない人間だった.

負けず嫌いだから,一応何でも一位を目指すんだけれど,大体その結果そこそこの順位に落ち着いてしまう.それも,二位とかベスト4とかそんないいものではなくて,イメージ的には20位とか結構微妙な感じで笑

どれだって一位になったことはなかった.
 いや,それどころか,本当の僕の目指す「上位層」に入ったことはなかった.

でも,そんな中でも,救いようがあるものが一つだけあった.

それは総合順位だ.

学校の模試や,スポーツテストなんかを受けても,どれもまあまあなんだけれど, 
総合順位だけはなぜかよかった.

当時の僕はなぜそうなっているのか,理解できなかった.
単純に各科目,各種目の順位の相加平均をとれば,もっと下なのに,なぜ僕はこんな所にいるんだ,と.
特別何かが出来るわけでもない自分が,そんな所にいるのが,結構恥ずかしかったり,でもちょっと嬉しかったり.僕は自分が特徴のない人間だと言うことは常々思ってきたが,なぜかよくわからないけれどとりあえず総合的にはいいらしい,ということが僕のアイデンティティの拠り所だった.

しかしとうとう,成功者を知るにつれて,またその人たちの残す言葉をよく聞くようになるにつれて,僕のその唯一の柱がへし折られてしまった.

偉い人たちの言うことは抽象化すれば,多くはこうだ(と当時の僕は解釈した).

「自分の(一番の)強みを徹底的に磨くのがよい」

なんてことだろう

僕に人より優れたものなんて,これっぽっちもないじゃないか.
僕の中にあるそこそこ出来る部分を伸ばしたって,それで世界一になることなんて到底できないことは,もうこの短い人生を通して何度も証明されてきたことだった.

 
僕は悩んだ.

僕には果たして成功する才能があるのだろうかと.
人生を懸けて戦った果てにあるのは,小学校の時に何度も見た「がんばったで賞」のスタンプなんじゃないかと.

僕は自分の強みを何一つ言えない人間だぞ!
何を頑張って選び取ったところで,どうせ僕は人に勝てない.

蛇足だが,大学生ぐらいまでの僕は,世界一じゃない限り,何かを得意だと言ってはいけないと思っていた.
だって人に負けるなら,それはその人より不得意じゃないかと思っていたからだ.
だから,ことあるごとに「得意なことはなんですか?」って聞かれるのには本当にうんざりしていた.

でも,最近,友人Kから聞いた言葉で,ようやく,本当にようやくこの歳になって,総合順位の謎の現象を理解し,偉人の言葉の強迫観念から解放された.

「自分を競合たちから差別化しないとね.僕にはAとBとCっていう強みがあって,この3つの掛け合わせをしたセグメントなら,僕はかなりの希少価値があると思うんだ」

なるほど!そういうことだったのか.

結局かけ算だったのか.

さすがに総合順位の謎は今考えればあっけない程あっさりと解けた.
一つのカテゴリで100点をとれるのが,仮に上位1%だったとする.
そして,90点以上に入れるのが上位10%だったとしよう.
単純計算で,90点以上を三つのカテゴリでとれる人がいたとしたら,その人の希少価値は,
0.1^3 = 0.001 = 0.1%
つまり,一つのカテゴリで100点をとれる人間より桁が一つ上だ.
(もちろん,厳密にはこんな綺麗にはいかない.やっぱり何でも1位付近をとれてしまう人はいるもので,優秀な彼らのせいで上位層に入るにはもう少し頑張らないといけない)

そして,僕は各科目や種目でまんべんなく上位に位置することは,
実は希少価値を狙う上では非常に費用対効果が大きいと考えた.

90点を100点にする努力よりも,75点ぐらいのものを三つぐらい全部90点にする方がはるかに簡単だ.
それはテストを受けたことのある人なら大体納得して頂けると思う.

つまり,自分の今そこそこある上位の強みでセグメントを求めれば,自ずとそれはかなりの確度で希少価値を生んでいる.

別に自分の強みが世界一じゃないからって嘆くことはなかった.

今の僕は自分の強みを堂々と言える.…3つか4つぐらいのセットだけれど.

*注1
僕はその偉人たちのおっしゃる言葉を完全には理解できないので,敢えて自分の解釈を前提として議論を進めた.きっと,彼らの持っている,言っている強み,というのは結局その小さなセグメントにおける希少価値のことなんだろうと今は思っている. 

*注2
短期的には,僕は強みだけを伸ばそうとは思っていない. 
僕には苦手なことが山ほどあるし,それが強みを相殺する可能性を持っているほどのレベルかもしれないからだ.苦手なことが全部75点ぐらいになったら,強みにさらに集中しようと思う. 

ブログの目的とタイトルの由来

【ブログの目的】
将来の自分のため

【タイトルの由来】
「いかとう」とは
http://zokugo-dict.com/02i/ikatou.htm
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%AB%A5%C8%A5%A6
http://www.tnews.jp/entries/133 

僕は「いかとう」っぽいな,とか言われることが多かった.
本気と冗談両方含め.

理屈先行だったり,些細な日常の出来事に対して分析しすぎたり,勉強が好きだったり
話し方が説明っぽかったり,すぐに「なんで?」って聞いたり

その言葉自体は歳を重ねるごとに聞く回数は減ったけれど,
今はそんなに悪い言葉じゃないと思っている.

いや,むしろ褒め言葉だろうか.

それは,ある意味僕の固有性を保証しているようなもので,
僕が大嫌いな “One of them” という概念とは対極に位置するものだから.

そんな僕が特にテーマを絞ることなく日々考えたことを
ある意味日記的,備忘録的に書き綴るブログだから
「いかとう日記」

論理性を強化することの副作用〜とりわけ研究と内容伝達に特化するケースについて〜

研究成果を世の中に伝える手段は,基本的に論文だ.
また,学会なんかだと,プレゼンテーションをすることもある.

その両者に必要とされるのは,冷徹なまでの客観性だ.
それは理系文系に拘らず,論文を書く以上は私情や主観の一切を排除することが前提になる.
論文を書く以上,それは誰もが従わなければならないルールだ.

僕はその方が相手にとってわかりやすいし,聞き手は納得をすると思ってきた.
そして,学会においてそれは正しい.
だから,徹底的にこの2年間は自分の論理構築力を磨いてきた.本もたくさん読んだ.

そして,相手からどんな反論が出ようと,絶対にそれを論破できるデータと考察を準備してきた.

科学の領域以外もそれである程度上手くいくと思っていた.
いや,いつのまにかそれで大丈夫だと思ってしまっていた.

しかしそのおかげで,今日は全くダメだった.
どうやら僕は当たり前のことを忘れていたようだ.

僕が忘れていたもの,それは

自分の感情をこめて話すことだ.

人間の基本的な活動において,相手となるのは人だ.

例えば,ビジネスでいうと,購買してくださるお客様は,
必ずしも客観的な論理に納得してものやサービスを購入するわけじゃない.

購買のプロセスには,往々にして感情が作用する.
また,論理だけで人の感情は動かせない.

よって,ビジネスのすべてにおいて論理だけで進めようとすると,そこに待っているのは敗北の二文字だ.

基本的に僕は人と接するときには,自分のこと,つまり主観的なことはまず話さない.
いや,話せない.潜在的にはなすべきでないと思ってしまっている.
本能がそう言っている.

大げさに聞こえるかもしれないが,心底そう思っている.
小学校のとき,自分の思う通りに話し,それが相手に不快感を与え,相手に嫌われるという経験を何度かした.
幼い僕は,それに対して大きな恐怖を覚えた.
これは人間の本能的にすごく自然な反応だとは思う.
人間の本能が形作られたかつて,人類は小さなコミュニティを形成して活動して生存してきた.
 コミュニティが小さい故,一部の人に嫌われることは,死活問題だ.
本能がそれをまずいと感じるのは,当然のことだ.
そして僕たち現代人も同じ本能を持っている.

まあこのブログはそれを払拭することが一つの小目的でもあるのだが,
どうもこれがなかなか難しい.

今の僕が話すのは,多くは客観的な論理に裏付けられた考察や結論が多い(ような気がする).
なぜそんな話し方なのかは,上記のエピソードと,前回のエントリー「僕が論理が好きな理由」を読んで頂ければ分かると思う.

面白いことに,僕の高校時代を知る人は,僕のことを今とは対照的によくこう形容してくれた.

「情熱的で」「感情が豊かな」
「感情を大切にするよな」「熱いよな」

卒業アルバムに書き合いっこをしたり,色紙をもらったりしたものだが,
そこにはそんな言葉がよく並んでいる.

でも,どうやらそんな僕はここ数年で後ろに引っ込んでしまったらしい.
というか,表現の仕方を忘れてしまった.

表現が上手かった人たちに,何を意識していたのか教えを請うが,
予想通りそこまで意識してやっていることではなかった.

丁度,それはどうやったらそんなに上手に歌えるのかと,プロの歌手に尋ねるようなものだった.

ある程度言語化,論理体系化することはできるだろうが,
基本的には感覚レベルの話で,意識しないことが多い.
言語化したところで,一朝一夕に答える分には抽象度は高いままになる.
今のところ僕が得られた情報は,今の僕には感情を込めて話すことがあまり出来ていない,ということだ.

 
魅力的な人間は, 往々にして論理的であり情緒的である.
僕の内定先の会社では,この二つを「脳のシワと心のシワ」 と呼んでいる.

どうやったら僕はそんな人間になれるだろうか.

課題は山積みである.
 

僕が論理が好きな理由

僕は論理が大好きだ.

以前友人Hと議論していて,なぜ僕がそんなに論理が好きなのかということが明確に分かった.

非常に残念なことに,そしてとても格好悪いことに,それは合理性や効率性を評価しているからではなかった.

ただ,自分が傷つかずに済むからだった. 

僕にとって論理というのは,
それがたとえ自分がひねり出したものであっても,
それは僕の考えであって僕ではないのだ.
(言葉の厳密性のため念を押しておくと,ここでは論理という言葉は一般的に指すその因果関係の妥当性など以外にも,それを構成する最終的な結論や根拠なども含んで表現する.また,僕の言葉の厳密性に関する考えは近いうちに述べる)

人と戦うのは,僕が客観性を保証した僕の仮説であり論拠であり結論であり,僕自身ではない.

僕の論理が否定されたときは,僕の人格までは否定されない.
確かに,客観性を保証した僕に非はあるのだが,そこには必ず何かしらそう思ってしまった原因があり,それは大抵人である限り避けることができないヒューマンエラーだったりする.

よって,僕の人格は健在だ.

論理は僕の外側にあって,僕はそれを操作して後ろで監督していればいい.
僕は傷つかない.壊れるとすればそれは僕の論理だ.

だから,論理が使えない場面が僕は苦手だ.
例えば,スポーツはそうだろう.

僕は軟式テニスを10年程度やってきたが,試合に負けるのは未だに慣れない.
負けたときは,自分自身のやってきたこと全てが否定される.

戦略や戦術,戦法は理論武装できても,実際にそれを実行するのは僕であり,僕の体感覚が要だ.
つまり,僕にとって負けることは,僕の身体能力や学習能力や精神力が対戦相手よりも劣っていることを意味する.
(これは本質的ではないが,僕の負けず嫌いの由来の一つの要因だろう.)

また,勝ったからといって,相手に対してそれらの点において優越感を持つことはできない.
今回勝ったのはたまたまかもしれないし,自分よりも強いプレーヤーはごまんといるからだ.

まあそれでも面白いし何度でもやりたいと思えるからスポーツは不思議だ.

さて,今回は僕の論理に対して好意的な理由を書くことが主目的だったが,
やはりメッセージ性がないと文章が締まらないような強迫観念に囚われてしまうので,2点ほど.

・議論で相手に論破されたからといって,それを悲観する必要はない.
 
あなたは主観を極限まで排除し,議論をした.
その原因は人である以上避けられない主観が原因なのだから,あなたは悪くない. 

・議論で相手を論破したからといって,あなたは偉くはない. 

たしかに相手よりも主観を排除し,ヒューマンエラーをしなかったことは評価できる.
しかしそれ以上でもそれ以下でもない.ただそれだけだ.

論理は僕たちの外側にいる.
そして論理は手段だ.

論理を使った人が偉いとしたら,それはその人が論理によって最終的に立派な功績を残したときだ.

*注
 これは,決して自分の発言に対して責任を放棄しているということではない.
発言(=自分の論理)に対して自分は監督なので,全ての責任を持つ必要があると僕は考えている.

まあ当たり前のことですね 

時間が最も重要な資源であるのはなぜか

大人になるにつれて,時間の重要性に触れる機会が自然と増えてくる.
特に,ビジネスの世界に入ったら,それこそ最重要な資源として扱われる.

なんとなく直感的には分かるのだが,なぜそんなに時間が重要なのだろうか?

例えば,大前研一でも,アイドルグループの嵐でもなんでもいい.
彼らに一時間時間をもらうとしたら,その人たちが本来本職で稼ぐはずだった機会を損失しているので,
その対価に見合う報酬を渡さなければならない.それはたしかに非常に高価そうだし,実際に定量化可能な指標だ.その対価が高いから,時間は重要なのだろうか?

そうだとすれば,凡人の僕たちの時間価値は,せいぜい時給1000円程度でしかなくなってしまい,
時間は一般的にはその程度の価値しかないということになってしまう.

時間を時給換算することは確かにビジネスにおいてその人の重要性を語る上では客観的で参考になる指標だが,人生を語る上では,本質的ではないと僕は考えている.



僕は,時間の重要である所以は,「時間の万物との交換可能性」にあると思う.
時は金なり,とよく言うが,実際には価値は金よりもはるかに高く,またその交換先として金以外のもの,ほぼ全てのものに変換することが可能なのだ.

例えば,僕が今この帰省中の新幹線の中で,新しいビジネスを考えついたとしよう.
そしてそれがその後,莫大な利益を僕にもたらすとする.
これは,僕の「帰省中の新幹線の中で過ごす時間」が「金」や「成功」に変換されたことを意味する.

もしくはそうではなくて,僕が新幹線の中で,家族と話をしたとしよう
これは,僕の「帰省中の新幹線の中で過ごす時間」が「家族との絆の強化」,ひいては「幸せ」に変換されたことを意味する.


これが,万人にとって時間が重要な資源である理由だ. 
万物とは言っても,もちろん物理的に不可能なものやこととの変換は不可能だが,
世の中に存在するものやことであれば,ほぼ可能なのだ.

たとえそれが,ノーベル賞を獲ることや,アメリカの大統領になること,何かで世界一になることであったとしてもだ.

その人が可能性を捨てず,挑戦を続ける限り,時間は何にでも化けてくれる. 


一度きりの人生,楽しもうじゃないか.

ものづくりが好きなら仕事はものづくりにするべきか

これは僕がかつて就職活動をしたときに得た,一つの知見だ.

僕は,ものづくりが好きだからといって,安易にメーカー志望というのはかなり危険だと考えている.
これは別に,業界の市場動向がどうとかそういう話がしたいのではない.

就職活動のとある日,OB訪問先である社員さんから,「レンガ積みの話」を聞いた.


 あるところで,レンガ積みをしている人がいる.とても大変そうだ. 
その人になんでそんな大変そうなレンガ積みをするのかを聞いてみたら,3通りの答えが返ってくる.

1. レンガを積むのが好きなんだ
2. レンガを積んで教会を作るのが好きなんだ
3. 教会を作って,ここで結婚式を行って人に幸せになってほしいんだ 


 1. はものを作る行為そのもの 2. は成果物 3. は成果物の意義 がその人にとっての関心事だ.
(結局は目的と手段の階層を大きく3つに分けたにすぎないが, この3つというのが,おそらくここでは必要十分なのだ.)

 日常会話では,これらがまとめて「ものづくりが好き」と言われている.
このずれを認識しないで,自分がものづくりが好きだからメーカーかな,と短絡的に結論づけると,半分の人は不幸になるかもしれない. 

これは,いわゆる趣味と仕事を一致させるべきか否かという話だと僕は考えている. 

仕事では成果を求められるので,1.のようなタイプの人は,特にものづくりを仕事にするのは辛いと思う.この辛い経験をした人は,「仕事と趣味は別にした方がいい」という意見を持つような気がする.
一方で,3.タイプの人は,仕事にしても問題はないと思う.そもそも,その意義を達成するためには,手段としての成果物がまともであることが前提になるからだ. 

必ずしもそうとは言い切れないが,少なくとも大切な観点であるとは思っている. 

僕自身がものづくりが好きなので,なんとなくものづくりに携わりたいと思っていたが,自分は1.タイプの人間だと気づいた瞬間,当時の僕はものづくりは趣味でいいやと思ったのだった.



しかし,これも昔の話.
僕には実現したい夢がある.

そのためには,趣味で一人で自己満足しているようでは,おそらく世界は変えられないだろう. 
僕はもっと頑張らなければならない