生き方

若いうちはやりたいことなんかない方がいい理由

やる気さえ出せば、僕は何でも出来ると信じている。

逆に、やる気がなければ何も出来ない。
(これは信じる以前に事実だ。)

僕にとって、やる気やモチベーション、
動機づけと言った類のものは、
車にとっての燃料みたいなものだ。

そしてそのやる気というのは、
僕が興味を持てるかどうか、
ただその一点のみにおいてゼロイチで決まる。

僕は、そこそこ興味を持てるものですら、せいぜい数時間で飽きてしまう。
本当に興味を持てるものは、10年以上は飽きない。


そして、言い換えれば、
興味のあることというのは、
僕の「やりたいこと」だ。

僕は小学校5年生以降、
常に何か「やりたいこと」を持っていて、
それ以外に何もできない人間になっていた。

そんな自分は嫌いじゃないが、最近思うのは、
若いうちはそういう「やりたいこと」なんて、
実はない方がいいのかもしれないということだ。

なぜかというと、
ビジネスパーソンとして生きる場合、
起業や独立以外に最初から選択肢がなく、
厳しい道を歩まざるを得なくなるからだ。

独立せずに人様の企業に所属する場合、
人様から与えられるミッションがあり、
往々にしてそこには自由がないことが多い。

この中で、やりたいことを持っていて、
それを主張する人間はほぼ確実に叩かれる。

「能力もまだないのにワガママ言うな。まずは言われたことがちゃんとできるようになれ」
「やりたいことをやりたければ、成果を出してからにしろ」

まあ、大体言われることはこんな所だ。
僕はこの手のことはほぼ全て言われてきた。

環境との組み合わせが最悪なので、
常に環境に対する不満ばかりを言いたくなり、
素直に取り組むことが困難だ。

頭では、
「そんなことを考えるのは時間のムダなので、
素直に従って成果を出すことにコミットするべきだ」
というのは、死ぬほど分かっている。

だが、人間は感情の生き物で、
納得ができない限りはそれに従いたくない。

自分の信念を殺してまで人に従いたくないのだ。

従った瞬間、自分のやりたいことを否定したことになり、
自分の価値観を否定していることになる。

自分のアイデンティティを否定してまで、
人や組織に従うべきだとは思わない。

でも、組織に所属するということを考えると、
相手の主張も、組織の一員としての義務も理解できるので、
反論はできない。

それが分からないほど人はバカじゃない。

だから、組み合わせが悪かったと考えるしかないのだ。

怒られるたびに、落とし所として毎回その考えにたどり着くが、
それを言うことももちろんできず、
一方で「今すぐ退職する」と宣言する勇気もない。

時間だけがいたずらに経過し、何も成長しない。

日々不満だけが積もる。

何千回かこれを繰り返した頃、
ある日爆発したように「退職する」と言い出すか、
ある人は鬱になって休職する。

(僕は幸いメンタルは弱くない方だったので、半分鬱ぐらいで済んだ)

こういう僕みたいな人は、
顕在化していないだけで、
それなりの数はいると思う。

この一方、やりたいことがない人というのは、
素直に組織のミッションに従うことができる。

素直に従うから組織でも可愛がられるし、
ちゃんと本気で取り組めるので成長も早い。

そうやって成長する中で、力をつけた頃に、
やりたいことを見つけてそっちへシフトしていくことができる。

どう考えたって、やりたいことが明確にある人は、
それが確実にできる企業や職場に行けないかぎり、
損をする構図になっているのだ。

だから、僕は若い内には、
やりたいことなんか無い方が、
若い時間をムダにしないで済むからよいと思う。

結局、リアルの本屋はAmazonと比べて何がいいのか?

Amazonは規模としては世界一の本屋というのは、
誰も反論の余地がないだろう。

自分の過去の購買履歴から、
自分にピッタリの書籍をリコメンドしてくれる。

そして、気になった本は、
その場でポチッとすれば、
書籍を自宅まで送ってくれる。

便利なことこの上ない。

じゃあ、本屋に行くことは、
もはや無意味になってしまったんじゃないか。

…というと、実は必ずしもそうではない。

Amazonの強力なリコメンド機能には、
一つだけ弱点がある。

それは、偶然の出会いを引き起こせないことだ。

誰しも、本屋や図書館でブラブラしていて、
普段は立ち寄らない場所で偶然目に入った、
気になる書籍を手に取ったら、
思いの外ハマったみたいな経験の一つや二つはあるだろう。

Amazonの画面を見ていると、
こうした偶然の出会いというものが完全に消える。

その意味で、
リコメンド機能を持つものは、
すべてこのリスクを孕んでいる。

まあ、Amazonが実店舗出店をアメリカなんかでやっていた気がするが、
そこまでやってしまうと、完全な無双状態なのだが。

いずれにせよ、普段からAmazonでの書籍購入一辺倒の人は、
久々に実店舗に足を運んでみてはいかがだろうか。

論理的思考の限界〜意思決定を論理的に行うとハマる罠〜

前回の『論理的思考の限界 』に次ぐ、第二弾だ。

元ネタは、みんな大好きMetapsの佐藤さんのブログだ。
ロジカルシンキングの弱点を考えてみた

昔、自分の叔父に言われた言葉で、
つい最近まで全く理解できなかったことがある。

「論理的思考なんて役に立たない。
そこで生まれる蓋然性なんて微々たるものだ。」

確かに、論理的に考えたことが外れることが頻繁に起きていた。

そしてこの記事を読んだとき、
どうして論理的な意思決定がことごとく失敗するのか、
違和感を覚えていた僕の疑問がついに氷解した。

今や、論理的思考はビジネスの世界では基礎技術とも言うべきスキルだ。

だが、何のために使う道具なのか、
今ここで明確にしておこう。

論理的思考とは、
他者を説得するために使う道具であって、
意思決定をするために使うべきではない。

そもそも、論理的思考が成立するためには、
ある命題を成り立たせるために必要な要素がすべて揃っていること、
その要素が正しいことを認識できること
の二点が前提になる。

果たして、人間は上記の二点をすべて把握できるほど全能なのであろうか。

答えはNoだ。

仮に、新規事業を検討している担当者が社内でプレゼンテーションをするとしましょう。海外ではその市場は注目されており、まだ日本では誰も手がけていないビジネスだとします。

担当者は、そのビジネスの可能性を、市場の成長性・海外プレイヤーの成長率・自社が参入した場合の競争優位性などを材料に、経営陣にプレゼンを実施します。経営陣はその説明をもとに自分達でも成功角度を見積もり参入の意思決定を行います。

もし、この時に同じことを検討している会社が100社あったらどうでしょう?

市場は一瞬で競争過剰に陥り値下げ合戦に巻き込まれて充分な利益が出せなくなるでしょう。ただ、今現在に誰がどんな事を考えて何の準備をしているかをリアルタイムで知ることは、世界中を監視できる立場にないと不可能です。この時点で、競争環境を判断する材料が抜け落ちていることになります。

ロジカルシンキングの弱点を考えてみた 佐藤航陽のブログより

すべての正しい情報を集めることも、
正しさを判断することもできないのに、
どうしてそれを材料にして考えた結論が正しくなり得るのだろうか?

だから、「論理的に」考えた投資は失敗するし、
戦略も失敗する。

こうして出来上がった論理は、
人にもっともらしいと納得させることはできたとしても、
それが成功につながるかどうかは分からない。

その意味で、論理的思考というものは、
説得するためのツールと割り切ってしまったほうが、
よっぽどいいのかもしれない。

価値観とは「証明不可能な事象の答えをどう考えるか」である

価値観という言葉がどういう意味なのか、
ちゃんと考えたことがあるだろうか。

身近な言葉ほど、定義が曖昧なことが多い。

今日は、価値観という言葉の定義について僕の考えを示そう。

結論から言うと、僕の価値観の定義は、
「証明不可能な事象の答えをどう考えるか」
である。

そしてこれは狭義の価値観の定義でもある。

そもそも価値観には、価値を見出す対象ごとに大きく二つある。
・答えが分かるものに対する価値観
・答えが分からないものに対する価値観

そして、前述の定義は後者に対するものだ。

まず、答えが分かるものというのは、
例えば
「俺は一人で生きていくのが、気楽で幸せなんだ」
という個人で答えが異なる類のものだ。

幸せの感じ方というのは個々人で異なるが、
自分にとっては答えがある程度明確に決まっている。
(後述の通り、科学的な答えがあるものは、ここに入らない)

一方、答えが分からないものというのは、

「長い時間をかけて準備して起業派 vs 今すぐ起業派」
「量より質 vs 質より量」

みたいな、現代の科学では証明ができないものだ。

人とコミュニケーションしていて、
大体問題が起きるのはこっちの話だ。

そして、人々は自分の経験談や身近な成功者を引き合いに、
議論を開始する。

しかし、これは非常に不毛だ。
なぜならどれだけ事例を出したところで、
厳密な証明ができないからだ。

そこにあるのは、証明不可能な命題に対して、
何を自分は信じるか、という考え方だけだ。

こんなものが人と一生交わるはずがない。
そもそも信じる信じないの宗教の世界の話なので、
どっちが正しいもクソもないのだ。

万が一それが証明可能な内容だったとしたら、
それは価値観の違いではなく、
どちらかが明確に科学的に誤っているだけだ。

(実験を軽視している、権威で正しさが決められがちな、
社会科学の領域の理論が基盤にあるとすればそれは論外である。)

この価値観という言葉を、
具体的に定義することの効用は何か。

それは、
価値観が合わない人がなぜ合わないのか、
その起きている現象を客観視し、
建設的な議論ができるようになることにあるのだ。

【追記】
ちなみに、後者の価値観の定義は、
定義から言って時代によって変わる。

例えば、1+1が2ではなく、3という考え方があったとして、
それは価値観が違うのではなく、
ただ単に誤っているだけだ。

しかし、戦国時代の人が、
地震は八百万の神のイタズラだと考えていたとして、
それは誤りなのだろうか?

その時代に生きていた人は、それを科学的な誤りだと認識できない。
現代から見てこそ誤りだが、これは立派な価値観だったのだ。

つまり、科学によって証明が可能な領域が増えれば増えるほど、
後者の価値観の領域はなくなっていく。

今後、AIと世界中に散りばめられたセンサーによる取得データによって、
ある程度未来の予測が可能になることがあるとすれば、
そのときは、それこそ
「とりあえず三年は働いた方がいい」
みたいな証明不可能な価値観の話も、正しいか誤りかが解ってしまうだろう。

僕が「…したい」という言葉を殺した理由

理由は簡単だ。

「…したい」と言っている内は一生やらないからだ。
魅力的だと思ったことに対して取り組む姿勢は三通りしかない。
1. やらない
2. いつやるかを具体的決めて実行する
3. どうしても前のどちらかに決められない場合のみ「いつかやるリスト」に放り込む。
※ただし、いつかやるリストは一週間に一度など、定期的に見直しをされ、
そこに一年以上残留したものは基本的に削除されるものとする。
この仕組みにより、僕の人生から、
単にやりたいだけの戯言は消滅した。
すべて実行されるか抹消される運命にある。
よって、僕は一生「…したい」とは言う必要がなくなった。
【追記】
過去の自分に言い聞かせてやりたいが、
僕が最も信用出来ない言葉の一つは、
「いつか起業したい」だ。
それはイコールで一生やらないと言っている。

本当にそれをやりたいと思っている人は、
今すぐに行動を始めるものだ。

母校へ原体験探しに行った話【小学校編】

前回の中学高校編の翌日、
僕は自分の卒業した小学校に足を運んだ。

目的は変わらず、事業の軸になるような自分の原体験を見つけることだ。

実家から徒歩わずか3分の場所にある母校は、
普段から帰省時に外からはよく見ていたので、
特別懐かしい気持ちになることはなかった。

この日、偶然学校の門が開いていたので、
校庭を歩くことができた。

久しぶりに入った構内はやや小さく感じられたが、
大きく変わった場所はあまりなく、
教室すら当時と変わらない形のままだった。

しかし、肝心の当時の記憶は僕の期待通り、
全くと言っていいほど思い出すことはできなかった。

ただ、やはり中学高校と変わらず、
一つだけ確かなことがあった。

僕は小学校の頃から、
自分がやりたいと思ったことは、
一生懸命取り組んできた。

陸上大会や駅伝大会、そして中学受験。

要領が良い方ではなかったが、
不器用ながらもちゃんとやっていたようだ。

残念ながら、取り組んだもので、
飛び抜けた結果を残したものはなかったが、
それでも、親に言われていやいややっていたピアノなんかよりは、
雲泥の差がつくぐらい成果は違っていた。

そして僕のこの生き方は、20年以上変わっていない。

やりたいことをやると一度決めたら、
それに全力投球する。

やりたくもないことには全く本気になれず、
怒られることしかできない。

我ながらもう少し器用に振る舞うことができてもいいと思うが、
まあ全力投球した領域では、割りと満足してきたので、
これから変える必要もないと思っている。

特に、やりたいことや好きなことを武器にしないと、
むしろ生き残ることが難しい今の世の中、
自分のような不器用なハマり症の人間は、
案外有利なんじゃないかとすら思っている。

少し話が逸れてしまったが、
総括すると、

僕みたいな若干偏りのある人間が、
もう少しのびのびと生きられる社会になればいいな、
ぐらいのことは昔からうすうす感じていたようだ。

抽象度が高すぎて事業に落とし込むには困難だが、
一方で今どきの起業家は、これぐらい大きなビジョンを描けないと、
むしろ器が小さいと思われて期待されない節もあるので、
これも特に悪いことでもない。

今度は9月に、大学のときの友人Hと、
一緒に当時の二箇所のキャンパスを巡る予定だ。

自分で少しは物事を考えられるようになった年齢だけに、
少しだけ期待している。

母校へ原体験探しに行った話【中学・高校編】

僕は、2017年8月15日の昼下がりに思い立ち、
実家から約45分かかる久しぶりの母校へ向かった。

目的は事業の軸になるような自分の原体験を見つけることだ。

僕は田舎の私立の中高一貫校に通っていた。

当時を完全に再現するべく、
実家の朝の起床や身支度からスタートした。

朝気づいた違いは、ケータイの有無。

僕の母校は校則が厳しく、
携帯電話を学校に持ってくることは校則違反だった。

持ち歩く貴重品は財布のみ。

いつも出発ギリギリでバタバタと準備して、
走って電車に乗る。

学年を経るごとに電車の時刻は遅くなり、
大学受験直前が一番遅かったのを思い出した。

時間が守れないのはずっと昔からだ。
ギリギリ遅刻するか、余裕すぎるかのどちらかしかできない。

通学は基本的には一人になることを好んでいた。

自分の思考の世界に浸れるからだ。

気の合う友達と一緒に話すことも好きだったが、
それ以外の誰かと一緒にいることは苦痛でしかなかった。

何を話せばいいのかが分からなかったからだ。

何を話したらいいのか分からなかった僕は、
中学一年生のとき、自分が一番話しやすかった自分の話をした。

だが、人々の反応はいまいちだった。

逆に、人に自分の話をされたとき、
僕はあまり興味が持てず、
それが延々と続くときは苦痛すら感じた。

こうして、中学一年生のときの僕の一番大きな学びは、
人は基本的に自分の話をするのが大好きであり、
逆に人の話を聞かされるのは苦痛だということだった。

これに気づいて以来、
僕は自分の話をすることを避けるようになり、
するとすればオチのある話か、
相手にとって価値のある話に絞るように心がけるようになった。

中学一年生での気づきにしては、なかなか上出来だった。

そんなことを思い出しながら歩いていると、
気づけば懐かしい学校の正門に到着していた。

緑の匂いが、真夏の太陽の下でテニスをしていた当時を思い出させる。

部活の試合中にテニスラケットで頭をぶん殴られ、
お前は人間としてゴミだ、と理不尽に怒られたことすら懐かしく思える。

正門を通り過ぎて校庭を歩き回ったが、新しくできた校舎や建物も多く、
当時を回想するには少し変わりすぎていた。

数少ない、僕の記憶にあった場所はかなり古くなっていた。

卒業してからおよそ10年も経過したのだ。

時間の流れの速さに改めて驚いたが、
きっとこれからの10年はもっと早いのだろう。

結局、場所を巡ることで新しいことを思い出すということはなく、
思い出したといえば、その場所に紐付いた些細な出来事ぐらいだった。

「自分は実は高尚なことをよく考えていた人間なんじゃないか?」

こんな期待が少なからずあったが、
ちゃんと思い出してみるとやっぱりそんなことはなく、
あのときは、残念ながら大して何も考えていなかった。

勉強も部活も人間関係もすべて。

目の前のやることでいっぱいいっぱいで、
だけれどそのやることを一生懸命やっていた。

それ以上でもそれ以下でもない。

もっといいやり方を考えたり、人と議論したり、
ネットで調べることもできたはずだったが、
自分の中ですべて完結し、だが常に改善を実行していた。

勉強と部活だけを頑張っていれば文句を言われなかった当時。

「あのときの自分の方がすごかったんじゃないか」と思うあなたが知っておくべきたった一つのこと
にも書いたように、当時僕達が参加していたゲームは、
やっぱりシンプルで簡単だった。

校舎を眺め終わって帰ろうとした間際、
一つだけ重要なことを思い出すことができた。

僕は当時の成績は、自分で言うのもあれだが結構良い方で、
上位10%ぐらいには入っていた。

だが、とある休み時間に、ある友達が勉強をやっているのを見て、
「やばい、浮かれていたらすぐに抜かれる!」と強烈に思ったことがあったのだ。

その友達は成績は僕と逆で、下から10%ぐらいだった。

傍から見れば、まず逆転されるようには思えないのだが、
当時の僕には、全くそうは思えなかった。

今思っても、これはあながち勘違いでもなくて、
頭のスペックとか、日々やっていることで生じる差というのは、
実は大したことがない。

だが、その差を毎日つけ続ければ、やがて大きな差になる。

これは、僕にとっては大きな希望的発見だ。

僕が今到底敵わないと思っている偉大な起業家たちに、
日々の積み重ねでなんとか追いつけるかもしれないからだ。

この当たり前のことに気づいた僕は、
少しだけ心踊った。

ーそして結局この日、僕は

・ケータイによってスキマ時間が埋め尽くされるようになったこと
・当時は目の前のことをとりあえず一生懸命やることができていたこと
・日々の積み重ねが大きな差になること、

こんな3つの当たり前の発見を除いて、
他に新しい何かを見つけることはできなかった。

特に、事業の軸になるような、
僕がいつも問題意識を感じるようなことは見つからなかったのは残念だった。
強いて言うなら、やりたくもないこと(=古文なんかの実用性の低い勉強)をやることは、
やはり無駄だと当時も今も思うといったところだろうか。

さて、明日は小学校に行くことになっている。

比較的最近の高校時代ですら大して思い出すことはなかった。
小学校にはあまり期待できそうにもない。

そもそも僕は過去を振り返るのはどちらかと言えば嫌いで、
未来のことを考える方が好きだ。
過去に囚われて前に進んでいない感じがするからだ。

だが、後一日だけ、前に進むために過去を振り返ろう。

そう思いながら、僕は帰路についた。

【追記】
ちなみに僕は受験勉強を「頑張った」ことは一度もない。
割りと楽しんで自分の目標に向かって毎日好きなように勉強していただけだ。

もちろんしんどいときもあったが、
それを乗り越えるときの感情は「しんどいけど頑張ろう」というよりは、
「超えたいからやろう」という表現の方がしっくりくる。

「面白いことややりたいことを楽しんで本気でやっていれば、勝手に後から結果が出る

これは、僕が大学受験という、
ビジネスに対しては無価値で不思議な風習から得た、
僕の人生で最大の学びでもある。

逆にいえば、頑張っているような人は、
それを心から楽しんでいる人には一生勝てない。

僕は心底そう思っている。

だから、やりたくないことは一生やらない。
そう決めて、僕は自分でビジネスができるようになるため、起業するのだ。

やりたくもない、面白くもないことを、
大人や会社の都合で押し付けられなくても良い世界、
これは事業の軸とは言えないまでも、
僕が実現したいことというのは、これからも変わらなさそうだー

母校に原体験を探しに行った話【目的編】

自分にピッタリの起業案の軸を見つけるため、
自分の過去を振り返ることにした。

本心では、別にきれいなストーリーが必ずしもなくてもいいし、
面白くて自分が頑張れるものであればなんでもいいとすら思っている。

もしも毎回そんなにストーリーが必要なのであれば、
世の中にシリアルアントレプレナーは存在しないことになる。

ある意味、消費者にとって便利で売れるものであればなんでも良いのだ。

だがその一方で、ストーリーがないよりはあった方がいいのも確かだ。

例えば、
何の脈絡もなく、医療ビジネスをやりたいと言う人よりも、
自分が医療現場を目の当たりにしたり、
患者として問題を感じている人の方が、
より当事者として強烈な問題意識とビジョンを持つことができる。

これは、仲間集めにも、資金調達にも有利だ。

ということで、前回の転職活動以来、
久しぶりにやってみることにした。

そして、過去の原体験探しと決定的に違うのは、
その場所に足を実際に運んだことだ。

その場のリアルな五感の情報、
特に嗅覚はその場であらゆる記憶を想起することに役立つと考えた僕は、
この夏の休暇を利用して、僕の実家、小学校、中学校、高校と行ってきた。

大学は9月に行く予定だが、
まずは小中高についてまとめることにする。

続きはまた次回。

あなたはイケてるシリコンバレーの会社のCXOに笑われても自分を信じ続けられるか?

僕はこないだ、ちょっと面白い経験をした。


一緒に働いているアメリカ人のMさんと、

そのMさんの勤める会社のCXOのDさんがサンフランシスコから来日したときの話だ。

昼ごはんを一緒に食べていたとき、

僕たちは日米の文化の違いについて雑談をしていたのだが、

おもむろに彼が言ったのが、

「新幹線に乗ったとき、車両がクソ暑くて僕は上着脱いだんだけど、

日本人はこんなクソ暑いのに、なんでスーツずっと着てるんだ。我慢しすぎだろ」

ということだった。

日本の新幹線というのは、基本的に快適で、

少なくとも僕は当時の気温でジャケットを脱がないのは妥当に思えた。

したがって、率直に僕は考えた仮説を言った。

「アメリカ人の方が筋肉が多いからじゃない?

筋肉は発熱するけど、日本人はDNA的にアメリカ人ほどマッチョじゃないから、

別に我慢してるわけじゃないと思うよ」

すると、MさんとDさんは大笑いした。

「いや、そんな馬鹿馬鹿しい話ないだろw

適当なこと言ってんじゃねーよw」

と。

だいたいこんな感じだった。

まあ、そんな状況になったら、
普通はやっぱ自分が違うんじゃないか、
と思うかもしれない。
だけど、僕は笑われているのがなぜなのか分からず、
きょとんとしていた。
なぜなら、非常に合理的な仮説だったからだ。
学生時代に熱力学の勉強で、
平均的な人間の発熱量を近似して求めたことがあるが、
電気ストーブ一台分ぐらいにはなることを僕は知っていた。

そこから言って、筋肉による発熱は無視できないほど大きいはずだと思った。
実際、後で少し調べてみたところ、
そんなに的外れというわけでもなさそうだった。
少なくとも、議論する価値はあるだけの、
割といい線いってる仮説を立てていたわけだ。
結果的に笑い者になった僕は、
特段バカなことを言っていた訳ではなかったのだ。
それで、僕は何も、
自分の正当性を主張するために、
この記事を書いている訳ではない。
大切なことは、
自分がある程度自信を持って言えることを、
ただちょっと肩書きが優れた人に笑われたとしても、
実は自分が信じたことが正しかった、
なんてことはざらにあるということだ。
もちろん、根拠のないことにしがみつくのは、
ただの傲慢であり固執だ。
だが、
自分がちゃんと深く考えて、
正しいと思ったことは、
曲げない方が僕は幸せになれると考えている。
今まで世界を変えてきた人は、
ほとんどみんな周りに笑われたり、
バカにされてきた人ばかりだ。
それは当然で、
人とは異なる考え方をしたり、
突拍子もない斬新なことを考えたりする、
異質な人だからだ。
自分を信じた道を行く。
これが幸せとイノベーションへの近道だと思う。

ビジネスパーソンとして何を目指せばよいか

最近、標題にシンプルに答える、
非常にしっくりくる言葉を見つけた。

「仕事ができるようになる」
「ビジネスができるようになる」
これは両方とも違う。

まず、最初に目指すべきは、
「人を儲けさせられるようになる」
ことだ。

仕事ができるけれど提案書だけのコンサルとか、
ちょっと作業を代わりにやってくれるだけの人は、
本当の意味で人を儲けさせられていない。

一方で、
あっという間に仕組みを自動化して、儲ける時間を膨大に増やしてくれるエンジニアや、
儲かる話を持ってきてくれる人、
あるいは人が着いてくる言葉を考えられるコピーライターなんかは、
人を儲けさせられる人の典型例だ。

まずは人を儲けさせられるかどうか。
これはビジネスパーソンとして生きるなら、
常に念頭に置いておきたい言葉だ。