生き方

インターネット検索によって知識の価値がなくなったというのは本当か

「インターネットの普及で、
知識はすぐに手に入るようになったので、
知識自体の価値はほとんどなくなった」

僕は、このステートメントは正しくないと思っていて、
誤解を招く表現だと常々思っている。

今日はこれを正しい日本語で表現しようと思う。

まず、上記の通り、知識を所有していて、
それを提供することには価値がなくなるのは正しい。

インターネットは共有知だからだ。

しかし、知識は価値のある形に編集されて使われ価値になる。


逆に言うと、知識がないと編集のしようがなく、
価値が発揮できない。

そして、編集にはその知識の正しく深い理解が必要だ。

だから、正しく表現するとこうなる。

「知識を持っていること自体の相対的価値は減少し、
それだけで他者へ価値提供できる機会は過去よりも減少した。

しかし、知識は依然として価値を生み出すために必要な要素であり、
その意味で覚えていなくてもいい、というものではなく、
過去よりも正しく深く、体系的に身に着けなければ、
価値発揮することが難しくなっている。

その点において、知識を身につけるレベルは過去よりも高い水準で求められており、
むしろますます重要性を増しているとすら言える」

だ。

世界の構造を見た先に知った、自分の存在の小ささに僕は絶望した

このブログのタイトルにもある通り、
僕は世の中の構造がどうなっているのかを自分で読み解くのが好きだ。

そんな僕の特性を異常なレベルで体現しているのが、
Metapsの佐藤さんだ。

僕の興味は彼の興味にとても似ていて、
彼の思考している内容にはいつも驚かされてばかりだ。
そんな彼は僕と年齢がほとんど変わらない。

大体、「これからやること」などといって、
こんなに世界を俯瞰したことを考えられる25歳(当時)が世界のどこにいるというのだろう。

天然記念物レベルですごい人だ。

さて、今回の記事のタイトルの通り、
僕は彼のブログを読んで、彼と同じく絶望したという話だ。

できることの少なさに対する絶望

読むのが大変な人のために要約すると、
人一人が世界に対して与えられる影響は、
世界の歴史を考えたときにあまりにも小さ過ぎて、
自分の小ささに絶望した、ということだ。

そんなことは当たり前だと思う人も多いだろうが、
この記事を読んで具体的にどれぐらい小さいのかを理解できたのだ。

この世界がフラクタル構造(単純な規則の繰り返し。ブログのトップ画もその一種)であり、
ミトコンドリアを細胞内に有する人体が一つの世界と例えられるなら、
それはちょうど、人と世界(あるいは宇宙)の関係に等しい。

相似形だからだ。

つまり、人体にとって細胞一つの中のミトコンドリアが、
その細胞が死ぬまでの間(=人間の寿命)に、
酸素をエネルギーにして動いて人体に与える影響ぐらいしか、
僕たち人間ひとりひとりが世界に与える影響はない、ということだ。

なんということだろう。

もういてもいなくても同じなんじゃないかとすら思えてくる。

彼はこの絶望に対してはこれ以上何も述べていないが、
どうやってこの絶望と向き合っているのだろうか。

まあ、そんな絶望をしている暇があったら、
自分が楽しい何かで思考を満たしておくのが建設的だし幸せなのだろうが、
世界を変えることを目標にしている起業家たちが、
自分が世界へ与えるインパクトについて、どう認識しているのかは、
近い将来大物たちに直接伺ってみたいところだ。

海外に働きに出る意味がやっと分かった話

正直、最近まで欧米諸国や日本など「先進国」に働きに出てきていた、
外国人の友達の気持ちがあまり分からずにいた。

理屈は分かる。
母国よりもそっちの方が生活もいいし、
将来性もあるとかそういう話だ。

だが、かつて「先進国」だった日本に住んでいる僕は、
その感覚が分からなかった。

母国にこのまま住んでいても終わるだけだとは、
微塵も感じることができなかったのだ。

しかし最近、
もう日本は特定の領域で後進国というより、
トータルで見て既に後進国であることに気づき、
その気持ちがようやく分かってきた。

日本が●●後進国だ、という言い方をよく聞くが、
それは僕は誤った認識を与えていると思う。

基本的にどこをみてももう先進国ではなくなってきたのだ。

テクノロジー、多様性の受容、人生の選択肢の柔軟性、
イノベーション、男女格差、結婚制度、
あらゆる領域において、クソがつくほど遅れている。

強いて言うなら超高齢化社会などの人口構造だけ、
あるいはそれに伴う社会問題だけが、
世界で最先端を行っているに過ぎない。

先見性のある友人たちが、
中国語など諸外国の言葉まで勉強していた意味が、
数年経過した今になって、ようやく僕にも分かってきた。
(英語を勉強するのは当たり前である)

本当にこのままこの国に住み続けるのかどうか、
いよいよ本格的に検討した方が良さそうだ。

一人称の違いで自分の人格が変わることについて〜人格に影響を受けるパフォーマンス〜

友人がFacebook面白いことを書いていて、

改めてそうだなと思ったことだ。

彼は、一人称が変わることで、
人格が微妙に変わるそうだ。

複数の言語を操る人は、
複数の魂を持っているということもあることから、
かなり妥当な話だろう。

あまり普段意識はしていなかったが、
彼に限らず、僕も含め、多くの人はそうなんじゃないだろうか。

ある人は無意識のうちに、ある人は場面の影響で、
一人称が変わる条件は色々あるだろうが、
まあ、とにかく人格は紐付いて変わる。

過去にもよく書いているように、
思考と言語に密接な関係があるのがその一つの理由だ。

僕は、日常生活では一人称は「俺」だ。
丁寧語(僕)とタメ口(俺)、関西弁と標準語でマトリクスに整理すると、
自己認識ではこんな感じだ。
(他の人からは違って見えるかもしれない)

丁寧語×関西弁:挑戦的で生意気
丁寧語×標準語:弱気で意志薄弱な下僕
タメ口×関西弁:強気で意志強固なリーダー
タメ口×標準語:気取り屋

ちなみに英語で話すときの僕の人格は、タメ口×関西弁に該当する。
相手が教授だろうが社長だろうが、話し方は変わらない。
英語だとかなり強気で自分の思っていることを言えるようになる。

そして、重要なのはここからで、
この人格がその人のパフォーマンスに多大な影響を与えている
というのが僕の仮説だ。

他の人がどうかわからないから、
とりあえず自分を例に解説しよう。

僕は昔からよくリーダー役を買って出ることが多かったし、
周りからもそう見られることが多かった。

僕の性格はビジョナリーで、未来を語ったり、
その人の強みを見出して褒めたり活用することが得意だ。

しかし、この性格や得意技は、
最低でも対話相手との相対的位置関係が同等でなければ、
発揮することが困難だ。

例えば、多くの日本人は、ですます口調の自分よりも能力が劣ると思っている後輩から、
「先輩のここは強みですね」という意見はもらいたくないだろう。
褒められるなんてもってのほかだ。

これは、評価や褒めるという行為が、
基本的には上から下か、横のベクトルのものだからだ。

未来を描くにしても、企業組織はおおよそ上からビジョンが降りてくる。
下層の下々の民が描く未来なんぞ、興味がない。

つまり、僕の強みはポジション的にフラット以上な関係を築けないと、
発揮することが困難だということになる。

これは僕の過去の経験からも、
ぴったり感覚として当てはまっている。

外国人と話すときのほうが、
かなり自分の素が出せて楽なのも、
気のせいではないだろう。

これはあくまでも僕の一例に過ぎないが、
ある人は誰かについていく(丁寧語)ときの方が能力が発揮される場合もあるだろう。

これは言い換えれば、
一部ポジションが変われば人が変わるということでもある。

自分がどの人格のときが一番ラクに、
そして高いパフォーマンスを発揮できるのか、
一度考えてみてはいかがだろうか。

【追記】
なお、僕は関西出身のため、
関西弁と標準語でマトリクスを切ることができた。

そもそも標準語を話す人は、
人格数が方言を持つ人よりも少ないということは、
十分に考えられる。

「ぼくができることから ぼくにしかできないことへ」アスペルガーの15歳の少年は語った

昨日、NEWS ZEROの中で、

群馬県桐生市の山奥でコーヒーショップを営む、

15歳の男性、岩野響さんが取材されていた。

(お店のHPはこちら


彼が映像に映って、リポーターとコミュニケーションを始めた瞬間、

僕には分かった。


彼はアスペルガー症候群だと。


アスペルガー症候群の人特有の、

目を合わせない感じ、若干機械的な話し方、

彼の挙動全てが典型的だった。


案の定、取材の話は途中で彼がアスペルガー症候群だということを明かした。

(「障害」だと表現していたのが気に食わなかったが)


彼は学校でずっと座っていることができないそうなので、

おそらくADHDも若干持っているのだろう。


彼は割りとがっつりアスペルガーのようで、

学校にも行けないし、宿題もできなかったそうだ。


あまり興味の持てるものが、

学校で習う教科にはなかったのだろう。


心中お察しします。


普通の人は、彼のこの振る舞いが「異常」だと認識し、

それを「矯正」しにかかる。


「みんなが出来て当たり前」のことが、

できるように無理やりやらせるのだ。


「甘えだ」とか「逃げだ」とか時代錯誤の浅い思考で逃げ道を塞ぎ、

「君のためだ」とか「社会に出たら必要なことだ」とかそういう大義名分のもと、

強制的に価値観を変えようとする。


ああ、気持ち悪い。吐き気がする。


しかし、彼は恵まれていた。


何より素晴らしかったのが彼のご両親で、

「できないことをできるようにすることは、それはそれで大切だとは思うんですけど、

できることに注目してやらせてみようと思ったんです」

(若干うろ覚え)


アスペルガーの人は多くは聴覚か視覚が敏感なのだが、

彼は若干珍しい味覚が敏感なタイプらしく、

それが今のコーヒーという好きなものとマッチしたみたいだ。


「彼の好きなこと好きにやらせよう」

15歳の少年の親世代の価値観からは想像もできないぐらい、

超絶現代の生き方を分かっていらっしゃる方だった。


そして、彼と彼のご両親、そして地域のみなさんという、

強みと弱みを補完しあった「チーム」として、

彼らのコミュニティは成り立っている。


結果として、彼らは今小さな成功を手にしている。


「ぼくができることから ぼくにしかできないことへ」


これは彼のお店のパンフレットに記された、彼の言葉だ。


実際、ADHDやアスペルガー特有の興味対象への過集中と、

彼の味覚があれば、彼にしかできないことはこれから沢山生まれるだろう。


人はこれを「才能」と呼ぶ。


障害ではない。


日本人は弱みフォーカスが大好きだが、

弱みに焦点を当てても成果は上がらないし、

幸福度も下がるという研究結果はたくさんある。


こうした事例から、個々人の強みを中心とした人生設計が、

普通になっていく世の中を願ってやまない。


【追記】

TV放映以前に、実際に取材に行かれたブロガーの方がいらっしゃったようです。

その記事はこちらから。

人が「素直」に生きることを叩く人は、それが出来る人が羨ましいだけ

今日、ビジネスデザイナー濱口秀司さんのツイートを見て思ったことだ。

僕が苦手とする人は、これを見て開口一番に言うことが、
「それはわがままだ」なのだが、この自分の意見に耳を傾け、
その通りに生きることが、どれだけしんどいことかを彼らは考えない。

自分の欲求に素直に生きている人はどれぐらいいるだろう。

他人の目とか期待が気になって、
自分の思うようには振る舞い切れないというのがほとんどじゃないだろうか。

僕は、最近本当にそれを強く実感している。

自分の欲求に素直に生きると、
当然、人に迷惑がかかることもある。

だが、人に迷惑をかけずに生きることなんか、
神じゃない限りそもそも不可能だし、
その人の期待に応えるために一生懸命生きたところで、
その人は僕の人生に責任をとってくれるわけじゃない。

他人のために生きた時間を返してくれる魔法使いのような人に、
僕は今までに一度もお目にかかったことがない。

だから、僕は人の時間を生きるのが大嫌いだ。

僕は自分の時間を生きるために自分の欲求に素直になるし、
他人に何と言われようと僕は自分で人生を選択してきた。

しかし、人生の岐路での選択の都度、他人はこう言ってくる。

「逃げるな」

全く余計なお世話である。

受験勉強レベルの簡単なことからすら逃げてきた自分の過去を棚に上げて、
よくもまあそんなことを僕に言えるものだ、といつも思う。

そして、この「逃げるな」という言葉を言う人は、いつも無責任なんですよ。

「逃げるな」というのは、「逃げずに立ち向かったことによって心身をやられて人生が詰んでも面倒を見てやる」という覚悟がなければ、言っちゃダメな言葉です。
ー『嫌なことから逃げて何が悪い?耐えれば成長するとは限らない

こういう覚悟もなにもナシで、
適当に「逃げるな」って言ってくる人は、
ただ自分の価値観を相手に押し付けたいだけなんですよね。

その人の価値観を生きたところで、自分は疲弊するだけ。

そんなバカなことはやめて、さっさと自分に素直になりましょう。

ちなみに、僕はまあこんな感じだから、
「逃げるやつだ」とか言われることがあるわけですよ。

でも、面白いのが、一方で
「ストイックだ」
「真面目だ」
「自分でやるって決めたことちゃんと最後までやる人だ」
とも言われる。

これはどっちも正しくて、
僕は自分が現在心の底からやらないといけない、
負けられない、と思っていることには、
人生で手を抜いたことは一度もない。

ただ、その重要度が僕の中で低いと、途端にやらなくなる。

ただそれだけだ。

自分のやりたいことに素直で何が悪い。

結局彼らは、そうやって思うがまま、
恐怖に屈さずに自由奔放に生きられる、
僕たちみたいな勇敢な(頭のねじがちょっと飛んでる?)
人種が羨ましいだけなんですよ。

全然気にしなくてオッケーです。

もっと自分の意志や欲求に素直になりましょう。

未来を語れない「偉い人」を見てヤバいと思った話

僕が仕事で何人かの「偉い」人たちと外出をしているときだった。

一番「偉い」人が
「AIが最近すごいみたいだね」
と言っていたので、
どれぐらい彼らがホットな話題と未来を考えているのか、
意見を引き出すために、僕は最近読んだばかりの知見を共有した。

まあ、割りとよくある話で、
AIがどういう領域は人間と取って代わることができるかとか、
どういう領域からビジネス的には入るといいかとか、
自社のビジネスに活かすとしたら、どういう使い方がいいかとか、
そんな話をした。

僕は、僕の話に対して、
何かしらのツッコミや誤認識の指摘、
あるいはそこから着想した新しいアイディアを生む場になることを期待した。

だが、結果は僕が予想だにしなかった状態だった。

…ポカーン。

誰も何も言わなかったのだ。

皆、中学生でも知っているような、
「AIがすごいらしい」
というレベルの話しか知らないどころか、
何も考えていなかったのだ。

流石に空気の読めない僕も、
その場で「偉い人」に「●●についてどう思われますか?」
という言葉をここで言ったらまずいことは分かった。

多分、この場の誰も何も答えられない。

無論、
「リバースエンジニアくん、僕はAIについてまだ全然勉強できていないんだけど、
●●っていうのはどういうことなのか、教えてくれないか?」
なんていう謙虚な質問をすることができる人もいない。

みんな下らないプライドを持っているからだ。
(もしここでそうした謙虚な姿勢で質問をする人がいたとしたら、
僕はその人を心の底から尊敬していたと思う)

本当にヤバいと僕は思った。

AIなんて僕は特別詳しい訳じゃなくて、
一般市民として意見を言えるぐらいに、
ちょっと自分でスキマ時間に調べて考えていただけだ。

だって、あんなにあからさまに
世界に影響を及ぼすテクノロジーなんて、
そうそう生まれない。

それについてすら未来を考えないなんて、
「偉い」ポジションにいるビジネスパーソンとしてどうなんだろう。

知らないことが罪だという話もあるが、
僕はここでそのレベルは求めていない。

あからさまに世の中に影響を与えることが分かっていることすら、
考えずに傍観している状況がヤバイのだ。

これは、僕がこの「偉い」人の意見をあまり聞かない決定打になった。

薄々気づいてはいたが、こんなに何も考えていない人の言うことは、
自分が若かりし頃に教わった前時代的な話ばかりだ。

それこそ「新卒で入ったら三年は続けたほうがいい」に代表されるような、
全く根拠のない負の遺産的思想を語ることしかできない。

状況はびっくりするぐらい変わってきている。

こういう変化はべき乗則で効いてくるものだ。

そんなお粗末な意見なんかより、
自分で考えた意見の方が、よっぽど信じられる。

もちろん、これは世の中のほんの一例だという説もあるが、
こうした既得権益者が自分の今の地位と収入に甘んじ、
本気で世界を考えなくなっているというのは、
僕は特にこの狭い島国においては割りとよくある話だと思う。

一番大切なのは、自分の頭で未来について考えることだ。

だから、理由もなく「偉い人」の言うことを
一生懸命ありがたがっている人は気をつけたほうが良い。

これからの時代を作るのは、時間の流れから言って若い世代なのだ。

そして、若い世代への共感性は、
上の世代よりも若い自分たちの方が、
はるかにあるものだ。

ポケモンGoやInstagram、SNOWを使ったことのない人が上にいる場合は要注意だ。

逆に、それらの若者の間で流行っているアプリを使ったことのある「偉い」人がいたとしたら、
その人はきっと、時代の動きに敏感な、文字通り偉い人だ。

歳をとっても、女子高生の流行りなんかにも詳しい、
かっこいいおじいちゃんになれるよう、
自分の頭で未来を考えることは常にやっておきたいものだ。

最近学歴の話しなくなったなあ

働き始めてからしばらく経ち、

年齢もアラサーだ。
ふと、最近思うのは、
自分の名前の重みだ。
もう少し言うと、
「◯◯大学出身の」とか、
「◯◯社の」とかのラベリングが、
最近同世代の間では、
ネタですら皆言わなくなったなと思う。
みんな、もう気づいているんだろう。
そうした肩書きが、
もはや自分を守ってくれないことに。
ネタにしても、虚しいことに。
僕もまあどちらかと言えば、
その肩書きの恩恵を享受してきた方で、
それがなくなることに対する焦燥感が全くないと言えば嘘だが、
むしろ自分をちゃんとブランディングしていかないといけないことを認識できて、
よかったと思っている。
実力に見合わない肩書きを持ってしまうと、
それに踊らされてしまう。
僕に肩書きなんて本当は最初からなかったのだ。
それがあると少し信じたかっただけみたいだ。
ようやく、肩書きの呪縛から解放されるときが来た。

本当にすごいのは、会社の命令系統を使わないでも人を動かせる人だ

僕は人のマネージメントをしたことはないが、

確実に言えることが一つだけある。
それは、掲題の通り、
会社の命令系統を使わずとも、
人を動かせる人こそが、
本当にすごいということだ。
これは、別に形式上は同じ、
会社の上司なんかの指示や命令をとっても、
動かせている人と動かせていない人がいる。
命令された側の動く動機付けが、
「命令だしな」
「会社の指示だから仕方ない、やるか」
などの場合、
その命令者は会社の肩書きや立場を失った瞬間、
人を一切動かせない。
その人がツイッターやブログで発信したところで、
どれだけの人が動かせるだろうか。
他人は全く組織を共有しない、
文字通りの他人だ。
誰も動かないだろう。
かたや、
命令された側の動く動機付けが、
「この人の言うことだからやろう」
「この人のためにちゃんとやろう」
などと、その人の兼ね備える価値に影響されて、
人が動いている場合は違う。
これはその人が肩書き以外に、
人間としての魅力が備わっていることを示している。
この人は、例え他の場所に行っても、
人を魅了し動かすことができるだろう。
前者と後者、
少なくとも人を動かすという観点において、
どっちが優れているのかは一目瞭然だ。
もちろん、その肩書きや立場というのは、
過去の実績などが他者に認められた結果だから、
その人にそうした実力があることは確かだろう。
だが、上の人間に評価されることと、
下の人間を動かせることは別の話なのだ。
人を本当の意味で動かせる魅力的な人間になりたいものだ。

人との比較をしてしまう彼がとった行動とは?

先日、高校時代のとある友人と、

久しぶりに会った。
彼は今起業していて、
いつの間にか僕の人生の大先輩になっていた。
僕から見ていて彼は、
色々と学ぶところがあって、
単純に人としてとても面白い。
その彼の驚くべき行動を紹介しよう。
誰もがある程度そうだとは思うが、
彼は人と自分を過度に比較してしまうらしい。
それが頭ではよくないということは分かっていても、
やめられないのが人間である。
それで、彼は、SNSを一切やらないことにしたのだ。
Facebookならまだしも、
LINEもほとんどやっていない。
友達リストをみたら、
ほんの10人ちょっとしかない。
別に交友が狭いとか、
苦手なわけじゃないのに、だ。
僕も彼と会う約束をするまでは、
そのリストにはいなかった。
彼は仕事に必要な人と、
ほんの一握りの友人としかコミュニケーションを取らないで生きている。
これは、自分に必要な情報を取捨選択した結果なのだそうだ。
これによって、彼は自分の本当にやりたいことに向き合い、
それを突き詰めることが出来ている。
ここまで極端でなくてもいいかもしれないが、
僕は彼の行動は少なくとも理にかなっていると思う。
こんなことを言うと、反論がありそうだが、
その前に一度考えてみてほしい。
僕たちはそんなに多くの人と、
毎日コミュニケーションを本当にとるだろうか?
本当に繋がり続けた方がいい人は、
そんなに多いだろうか。
一回や二回しか会っていなくて、
全然親しくなくても、
久しぶりに連絡して仕事をしたり、
有益な時間が過ごせるならいい。
だが、殆どの人はそんなことは出来ない。
つまり、SNSで流れてくる情報は、
ほぼノイズなのだ。
なのに、そのノイズに含まれる、
他人の無駄に幸福度の高い、
色んな情報を見て疲弊してしまう。
誰かが海外旅行した、
誰かが出世した、
誰かが資金調達した、
誰かが受賞した…
自分にとってそれが有意義な刺激にならないのなら、
こんなのはただの茶番だ。
自分がただかわいそうなだけだ。
人の幸福度は本来主観的に決まるので、
他人との比較は関係ないはずなのだが、
絶対的に自分を幸せだと定義できる人はそういない。
(僕もそうだ)
だから、Facebookを使うと幸福度が下がるという昨今の研究結果は、
極めて納得のいく話だ。
人間関係から少し飛躍したが、
本当に必要な情報を取捨選択する技術が、
ニュースのみならず、
人間関係においても必要だということだ。
あなたはSNSとうまく付き合えていますか?