時間が最も重要な資源であるのはなぜか

大人になるにつれて,時間の重要性に触れる機会が自然と増えてくる.
特に,ビジネスの世界に入ったら,それこそ最重要な資源として扱われる.

なんとなく直感的には分かるのだが,なぜそんなに時間が重要なのだろうか?

例えば,大前研一でも,アイドルグループの嵐でもなんでもいい.
彼らに一時間時間をもらうとしたら,その人たちが本来本職で稼ぐはずだった機会を損失しているので,
その対価に見合う報酬を渡さなければならない.それはたしかに非常に高価そうだし,実際に定量化可能な指標だ.その対価が高いから,時間は重要なのだろうか?

そうだとすれば,凡人の僕たちの時間価値は,せいぜい時給1000円程度でしかなくなってしまい,
時間は一般的にはその程度の価値しかないということになってしまう.

時間を時給換算することは確かにビジネスにおいてその人の重要性を語る上では客観的で参考になる指標だが,人生を語る上では,本質的ではないと僕は考えている.



僕は,時間の重要である所以は,「時間の万物との交換可能性」にあると思う.
時は金なり,とよく言うが,実際には価値は金よりもはるかに高く,またその交換先として金以外のもの,ほぼ全てのものに変換することが可能なのだ.

例えば,僕が今この帰省中の新幹線の中で,新しいビジネスを考えついたとしよう.
そしてそれがその後,莫大な利益を僕にもたらすとする.
これは,僕の「帰省中の新幹線の中で過ごす時間」が「金」や「成功」に変換されたことを意味する.

もしくはそうではなくて,僕が新幹線の中で,家族と話をしたとしよう
これは,僕の「帰省中の新幹線の中で過ごす時間」が「家族との絆の強化」,ひいては「幸せ」に変換されたことを意味する.


これが,万人にとって時間が重要な資源である理由だ. 
万物とは言っても,もちろん物理的に不可能なものやこととの変換は不可能だが,
世の中に存在するものやことであれば,ほぼ可能なのだ.

たとえそれが,ノーベル賞を獲ることや,アメリカの大統領になること,何かで世界一になることであったとしてもだ.

その人が可能性を捨てず,挑戦を続ける限り,時間は何にでも化けてくれる. 


一度きりの人生,楽しもうじゃないか.

文明の代償を受けるのは誰か

どうやら,忙しいときほど僕はブログを更新するタイプらしい.

現実逃避先として,掃除だったり,ゲーム だったり,人によるようだが,
どれにしろあまりよろしくない状態であることは言うまでもない.

が,メモしておきたいことを入浴中に思いついたので,忘れないように書き綴る.



さて,どんなものにもメリットとデメリットが存在することは周知の事実だろう.
たとえそれが,どんなに優れた発明や発見だったり,一流コンサルタントの提案であってもだ.


それらをひっくるめて,ここでは広義の「文明」と呼ぶことにしよう.

文明のメリット(本質)は効率の向上だと僕は思っている.

文明は,基本的には問題解決の手段であり,その問題解決は大抵僕たちの生活を豊かにし,QoLの向上に繋がっている.そして,その豊かさは,9割ぐらいは効率向上と同義であると僕は思っているわけだ.

FacebookやLINEなどは,効率向上というよりはライフスタイルの変化に近いところはあるが,
それでもコミュニケーションをとる手段として以前よりも効率は向上していると思う.

具体的な事例はここではあまり挙げないが,
僕が言いたいのは「文明のメリット=効率向上」ということだ
 

一方でデメリットはなんであろうか?
 
各自で一度考えてみて欲しいのだが,ここではデメリットのほんの一例を示そう.
これは僕自身が最近強く思うことなので,メモをしようと思ったのだ.
こういったことの積み重ねは,後で振り返ったときに重要な発見だったり自分の哲学の構築に繋がったりするためだ.


僕は,デメリットの最たる事例は,手段の目的化だと考えている.

ある文明が出現すると,それはたちまち人々の賞賛の的となり,やがて世間に浸透する.
ニュートンの運動
方程式も,ネルソン・マンデラの反アパルトヘイトも,LINEもそうだ.


当然,それらは革新的なものだったり,人道的に正しいものだったり,時代のニーズに合致したものだったりするわけで,人々が賞賛するに値するメリットを提供している.

しかし,往々にしてその暗黒面は注目されない.上記の3例に関しても例外ではない.
 一見,明らかにメリットばかりを提供しているように思えるものでさえ,暗黒面は必ず存在する.

その暗黒面を乗り越える手段は基本的には一つだ.

その文明を使いこなすことである.

使いこなせるということは,目的に応じて使い分けることができるということである.

そう,文明の代償を受けるのは他でもない,文明を使いこなすことができない人たちなのだ.
念のため具体例を挙げておこう.会社などでの業務のマニュアル化をイメージされたい.
マニュアルにはいちいち目的は記載しない.どういう動作をすれば最大効率で業務が進められるか,
その作業手順だけが記載されている.これを愚直に実行するだけになってしまうと,臨機応変な対応は絶対に不可能だろう.

そういった人たちをどうするか,ということはここでは議論しないが,
少なくとも文明を利用する際には,僕たちはその使い分けに注意しないといけないのだ.


<補足>
文明として事例を3つ列挙した.
ニュートンの運動方程式,ネルソン・マンデラの反アパルトヘイト運動,LINEだ.
読者の皆様はそれぞれの暗黒面をどのように分析されるだろうか?

いろいろ考え方はあると思うが,参考までに僕の考えを以下に記す.

まず,ニュートンの運動方程式だが,これは以前のエントリにも書いた「現代の最新科学が正しい」と思い込んでしまうことによる色眼鏡がデメリットだろう.
現代科学で解明できないものをどう考えるか
世の中のほとんどの事象がとても美しく記述できてしまうため, 日常的には問題ないし,メリットしかない.しかし,本質的な法則を見失っている可能性があるわけだ.ちょうど,重力の式が地球付近では上手く成り立つのに,本質は万有引力の法則だから,重力の式が宇宙に行くと全く使い物にならないのと同じだ.
 
反アパルトヘイト運動はどうだろう?
人類が平等であることは道徳的に正しく,僕もこの方向性自体は賛成だ.
しかし,かつて平等でなかったことを受けて,それが是正された地域でも平等性を訴えるとどうであろうか?人種よりも男女平等で考えた方が分かりやすいかもしれない.それなりに男女平等が進んだ社会においては,「逆差別」という言葉が出現する有様だ.
障害者(僕はこの呼び方は好きじゃないが)も同じだ.障害者を見てかわいそうだと思うことには,なにか違和感を感じざるを得ない.

LINEは簡単だ.
かねてからのSNSのデメリットである,コミュニティの閉鎖性や,それへの依存症などが考えられる.
もっと考えればFacebookなどとは違ったLINE特有のデメリットはあるだろう.
しかし,その分析は今回のエントリの目的ではないのでこの辺りで筆を置こう.

ものづくりが好きなら仕事はものづくりにするべきか

これは僕がかつて就職活動をしたときに得た,一つの知見だ.

僕は,ものづくりが好きだからといって,安易にメーカー志望というのはかなり危険だと考えている.
これは別に,業界の市場動向がどうとかそういう話がしたいのではない.

就職活動のとある日,OB訪問先である社員さんから,「レンガ積みの話」を聞いた.


 あるところで,レンガ積みをしている人がいる.とても大変そうだ. 
その人になんでそんな大変そうなレンガ積みをするのかを聞いてみたら,3通りの答えが返ってくる.

1. レンガを積むのが好きなんだ
2. レンガを積んで教会を作るのが好きなんだ
3. 教会を作って,ここで結婚式を行って人に幸せになってほしいんだ 


 1. はものを作る行為そのもの 2. は成果物 3. は成果物の意義 がその人にとっての関心事だ.
(結局は目的と手段の階層を大きく3つに分けたにすぎないが, この3つというのが,おそらくここでは必要十分なのだ.)

 日常会話では,これらがまとめて「ものづくりが好き」と言われている.
このずれを認識しないで,自分がものづくりが好きだからメーカーかな,と短絡的に結論づけると,半分の人は不幸になるかもしれない. 

これは,いわゆる趣味と仕事を一致させるべきか否かという話だと僕は考えている. 

仕事では成果を求められるので,1.のようなタイプの人は,特にものづくりを仕事にするのは辛いと思う.この辛い経験をした人は,「仕事と趣味は別にした方がいい」という意見を持つような気がする.
一方で,3.タイプの人は,仕事にしても問題はないと思う.そもそも,その意義を達成するためには,手段としての成果物がまともであることが前提になるからだ. 

必ずしもそうとは言い切れないが,少なくとも大切な観点であるとは思っている. 

僕自身がものづくりが好きなので,なんとなくものづくりに携わりたいと思っていたが,自分は1.タイプの人間だと気づいた瞬間,当時の僕はものづくりは趣味でいいやと思ったのだった.



しかし,これも昔の話.
僕には実現したい夢がある.

そのためには,趣味で一人で自己満足しているようでは,おそらく世界は変えられないだろう. 
僕はもっと頑張らなければならない

現代科学で解明できないものをどう考えるか

僕は,主に理系の道を歩んできたので,基本的には非科学的なことは信じない.

占いやオカルト的なものはその信じないものの代表格だ.

しかし,一昨年ぐらいから,どうも非科学的なものには,
現代の科学力では説明できないものが含まれていることに気づいた.
(占いやオカルトは,説明できないのではなく,科学や客観的論理で否定できるものである)

説明できないものを僕が信じるに至ったのは,彼のまさにコペルニクス的考え方がきっかけになった.

苫米地 英人
「科学の法則で説明できなかったら,間違っているのはその法則だ」 
(出所はうろ覚えのため割愛.しょっちゅうそういうこと言っているので,書籍を1,2冊読めばよいかと)

まさに僕は天動説を信じたプトレマイオスだったのかもしれない.

その事象は,今は説明できなくても,後世の科学で証明されることになるのかもしれない. 


さて,読者にとって最も興味深いのは,その事象の具体例は何か,だろう.
いや,もうお気づきかもしれない…

皆さんも経験はあるのではないだろうか.




「思っていた最悪の事態が起きた」
「身の回りで不幸が立て続けに起こった」

逆に,

「最近は急に女の子から連絡がくるようになった」
「最近ラッキーなことばかりだ」



僕は昔,こういった事象に対して次のように考えていた.
「人は,印象深い出来事に対して記憶のバイアスがかかり,あたかもよく起きているかのように錯覚するので,これらはその好例だ」と.

しかし,今の僕は,
「思考が実現している」
「宇宙的な何かで繋がっていて,連鎖的にいいこと(悪いこと)が起きるようになっている」
という可能性を支持している.

 もちろん,前者の可能性は否定できないし,バイアスを排除して統計的に検証してみなければ,
その妥当性は分からない.

けれど,そうなっているとしか思えないのだ.


思考が実現する,の手の本は最近ではもうありふれているが,
以下に面白い考察をしようとしていたブログのリンクを貼っておく.
http://kfloa.blog.fc2.com/

次回は,僕のその「宇宙的な何か」に対する仮説を示したいと思う.